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年表の出典には鵠沼85号とある。狽倉健氏による「橘通りの今昔」という文の次の箇所である。 「大正8年6月24日付けの横浜貿易新報に「汽車会」の大会を兼ねた懇親会が、藤沢駅南の藤沢実科女学校の校庭で開催されたという記事が載っている。汽車会とは、東京、横浜に汽車で通い仕事をする人士(当時は限られたエリートであった)の親睦団体である。この記事に見られるような人たちは、大正の始めころから増えており、また関東大震災の前後から湘南に住まいを求める動きも出てきた。」 また、「国鉄藤沢駅の南口を出たところから橘通りが始まる。駅から少し離れて江ノ電の駅舎があり、その先から南に低い松林の丘が延びている。丘の上には教会があり、江ノ電は丘の西の裾を走っている。片瀬街道は東の裾を通っていた。目を西に転じると、松林を背にした藤沢実科女学校がある。その前を南に過ぎると、取り壊された工場の跡があった。残っているのは煉瓦の腰壁くらいであったが、かなり広く「カタン工場」といい、子供の遊び場になっていた。「カタン」はコットンで綿糸関係の工場かと想像していたが、寺田良夫会員の話で、そこには片倉製糸の工場があり、その工場が、辻堂の現在関東特殊製鋼となっている場所に移転した跡と分かる。」とある。 で、「藤沢駅南の藤沢実科女学校」とは何か。調べてみると、町立藤沢実科高等女学校が設立認可され、藤沢尋常高等小学校仮校舎で授業を開始したのは1925(大正14)年4月である。 さすれば、「大正8年に「汽車会」の大会を兼ねた懇親会が開かれた藤沢駅南の藤沢実科女学校」は町立藤沢実科高等女学校のことではないことになる。 『鵠沼』第58号の「古老に聴く鵠沼の昔日・パート2」に次の記事がある。 「江ノ電の向こうは今の橘通りになるが、商店はなく、通りに沿って通称「力タン工場」と言っていた製糸工場があった。その先には実科女学校がありましたね。「カタン工場」とは、正式には片倉製糸の工場だったでしょう。実科女学校とは、相模実科女学校だったと思います。」 で、「相模実科女学校」とは何か。少なくともインターネットの検索エンジンでは見つからない。「だったと思います」とボカしてあるのは記憶に自信がないからであろう。その代わりに「私立湘南実科高等女学校」という学校の存在が判明した。 私立湘南実科女学校私立湘南実科女学校は、南波国二、手塚定吉、藤田文蔵、森山知可の連名で1922(大正11)年2月に職業学校規則に基づく職業学校として文部大臣に認可申請し、同年4月29日に認可され、6月1日に開校した神奈川県最初の職業学校であった。開校当初は藤沢町西横須賀に仮校舎が設けられたが、翌年の4月からは東横須賀130の本校舎に移った。問題はこの東横須賀130がどこかということである。藤沢一帯の小字、番地が制定されたのは、1873(明治6)年5月1日のことであった。現在の藤沢市で東横須賀というと、藤沢市藤沢に含まれるいわゆる「銀座通り」一帯を指すと考えられているが、ここは例えば第0007話で示した地図によると、東花立となっている。すなわち、東横須賀と東花立はイコールなのではないか。小字、番地が制定された1873(明治6)年は、鉄道が開通する15年近く前のことだから、小字の境界は鉄道路線には関係なく制定されていた。1921(大正10)年測図の1:25,000地形図には藤澤駅のすぐ南側に逆コの字型の建物が記入されている。この地形図の発行は震災直後のことだったから、測図段階ではなかった建物が発行までに記入された可能性もある。どうやらこの建物が藤沢町東横須賀130の私立湘南実科女学校らしい。 ところがこの学校は、開校早々4人の経営陣の間に対立が生じ、それぞれが関係官庁などに書簡を送りつけるなど、泥仕合の様相を見せた。文部省は神奈川県に事情調査を再三命じ、県は調査の結果「円満解決の見込みなし」との結論を回答したため、ついに閉鎖命令が出された。 この間の経緯については、長田三男早大教育学部教授が「私立湘南実科女学校の設立より閉鎖・廃止に至る経緯」と題する論文を『教育アーカイブズふじさわ』5号(2009)に掲載している。 私立湘南実科家政女学校この私立湘南実科女学校内紛問題解決の善後策として、実業家の井上保次郎が、私立湘南実科家政女学校、設立を申請し、1926(大正15)年6月19日、私立湘南実科女学校閉鎖命令と同時に同校の校地、校舎、生徒を引き継ぐ形で私立湘南実科家政女学校を開校させた。私立湘南実科家政女学校には幼稚園が併設され、それに通った思い出をもっておられる方の話では、花沢町だというから、小田急開通後も花沢町だったらしい。 私立湘南実科家政女学校は、世界恐慌の影響か入学希望者が激減し、1931(昭和6)年5月20日から1年間の休校を決定した。1年後には再開したかどうかの記録が見当たらないが、1943(昭和18)年6月22日に閉校している。 町立藤沢実科高等女学校2010(平成22)年度より県立大清水高校と統合し、神奈川県立清流高校となった県立藤沢高校は、1925(大正14)年に開校した町立藤沢実科高等女学校がスタート段階の名称である。当初は藤沢尋常高等小学校敷地内に仮校舎が用意され、半年後に「山王山」と呼ばれる藤沢本町の丘上に校舎が完成して移転したという。 まとめ以上の調査で判明したのは、藤沢駅南側に大正末期から昭和初期にあったのは、私立湘南実科女学校→私立湘南実科家政女学校であって、藤沢実科女学校でも相模実科女学校でもないということである。この時期、4校の実科女学校が次々に開校し、そのうち最後まで残ったのが町立藤沢実科高等女学校だったから、混乱を招いたのであろう。それでは、「大正8年6月24日付けの横浜貿易新報に「汽車会」の大会を兼ねた懇親会が、藤沢駅南の藤沢実科女学校の校庭で開催された」という記事とは何だろう。大正と昭和を取り違えたのではなかろうかと思えるのだが、新聞博物館にでも行って調べるしかなかろう。
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