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展示のテーマは「鵠沼のモニュメントと路傍石造物」というもので、初日は6月15日(水)である。お楽しみに。 ところで、鵠沼には文学碑が3基しかない。他に墓碑に句や歌が刻まれた例がいくつかある。江の島には、あの狭い島内に文学碑が20もある。鵠沼には、古くは鎌倉時代から訪れたり、滞在したり、居住したりした文人が多く、そこで生まれた文学作品も少なくないにも拘わらず、文学碑が3基というのは、余りにも寂しい。 その3基のうち、最も古いのが帆足可成句碑である。 帆足可成句碑設置場所 鵠沼藤が谷3-10(賀来神社境内)設置時期 1904(明治37)年3月 設置者 伊東將行 制作者 書:三昧菴主人 形態 自然型 碑高175㎝ 幅95㎝ 火成岩(安山岩) [碑面] 可成 古からしの落ち行あとや 水乃月 [碑陰] 君姓帆足名信松風庵可成其別號舊長府藩士仕至 陸軍一等軍吏正六位勲五等性風流嗜俳諧甚愛鵠 沼風景遂移寓本土有今日繁榮蓋君力居多焉明治 三十六年三月廿五日病歿歳五十有六頃友人伊東 將行等相謀將鐫其秀句於貞珉乞余揮毫乃書其由 明治三十七年三月 三昧菴主人識 君姓は帆足、名は信、松風庵可成は其の別号なり、旧長府藩士、仕えて陸軍一等軍吏正六位勲五等に至る、性風流にして俳諧を嗜む、甚だ鵠沼の風景を愛し、遂に寓を本土に移す、今日の繁栄有るは蓋し君が力居多ければなり、明治三十六年三月二十五日病歿す、齢五十有六、この頃友人伊東将行等相謀リ、将に其の秀句を貞珉(=碑) に鐫らんとして余に揮毫を乞う、乃ち其の由を書す 明治三十七年三月 三昧菴主人識 この句碑は、次項で紹介する賀来神社境内の参道を進み、右に折れ曲がるあたりの左奥に建っている。人の背丈ほどもあるかなり大きな碑だが、地味な存在である。 設置された1904(明治37)年3月は、実は賀来神社遷宮の前年にあたるが、既に境内地は確保され、あるいは社殿の建築も始まっていたかも知れない。いずれにせよ、社殿より先にこの句碑が建てられた。 帆足 信こと松風庵可成については、この碑陰の文章でしか調べることができなかったが、旧長府藩士で、陸軍一等軍吏正六位勲五等という職業軍人だったようだ。市井の俳人として俳諧を嗜んでいたが、どこかの句会の同人だったというような記録は見当たらない。伊東將行とは友人だったようで、この句碑も將行が建てた。 撰文を書いた三昧菴主人とは如何なる人物であるかは、調べがついていない。
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