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第0040話 中世の自然災害

吾妻鏡による鎌倉災害史

 近代に入るまで、鵠沼における自然災害は、よほどの大規模災害でなければ記録に残っていない。
 ところが、中世という時代には、日本の政治的中心が鎌倉に置かれ、そこでは『吾妻鏡』という公式の日誌が記録された。鎌倉幕府滅亡後も、関東管領が置かれて『神明鏡』や『南朝記伝・鎌倉大日記』、また、鶴岡八幡宮にも『鶴岡社務記録』が残されているため、かなり信憑性の高い記録がある。もちろんこれらは、鵠沼についての記録ではないが、こと地震や風水害といった自然災害についての記録は、鎌倉と鵠沼とではおそらくさほどの違いはなかったと考えられる。違いがあるとすれば、人口密度の差から来る災害の規模の違いくらいだろう。
 これらの記録を見ると、「鎌倉大地震」という記述がやたらに多い。140年ほどの鎌倉時代の間に55回を数え、年に2.5回平均で「大地震」が起きていた計算になる。
 後世、近代科学の時代になり、古記録を分析して大地震の規模を推測することがある程度の正確さで可能になり、『理科年表』などにも発表されている。それによれば、鎌倉時代に起きたマグニチュード=7以上の巨大地震は、1241年、1257年、1293年の3回ではないかと推測されている。
 中でも1293年の地震は直下型と推定され、死者推定23000人位という鎌倉時代最大のものであった。

末法思想

 このように多くの「大地震」が『吾妻鏡』に記録されているのは、それまで地震の少ない京都あたりで育った『吾妻鏡』記録担当者が、些細な地震でも「大地震」と大袈裟に記載したことも考えられる。しかし、実際に鎌倉時代には地震が多かったのかも知れない。
 日本の歴史の上で、鎌倉時代は政治の表面に武家が出てきて牛耳るようになった「武家社会」が確立した時代と位置づけられている。現代の政治学用語ではこれを「軍事政権」とも呼ぶ。「サムライ」とか「武士道」とかが日本人の精神的支柱を表す言葉として位置付くのもこの時代からであろう。武家とは暴力によって物事を解決しようとする人々である。
 彼らが世の中を支配しようとした時代は、武張ったというか殺伐とした時代だった。家の名を存続するためには兄弟が敵味方に分かれ殺し合ったりしたことは、大庭氏の例で述べた。
 こうした時代は人心が不安定だったろう。そこへ大地震が続いたら、さらに大きな不安が世の中に拡がったのであろう。こうした状況から人心を救うべく、多くの宗教家が様々な活動をした。彼らの多くが「末法」を口にしたのは、この時代が誰の眼にも異常な時代と映ったからに違いない。
中世の鎌倉周辺の自然災害    
西暦 和暦 記                        事
1185 文治 1 6 20 鎌倉大地震
1202 建仁 2 1 28 鎌倉大地震
1204 元久 1 10 6 鎌倉大地震
1208 承元 2 1 6 鎌倉大地震
1211 建暦 1 1 27 鎌倉大地震、朝日無光陰
1211 建暦 1 7 3 鎌倉大地震、牛馬騒警
1213 建暦 3 1 1 鎌倉大地震、堂社破れ倒れる
1213 建保 1 5 21 鎌倉大地震、山崩れ地裂ける
1213 建保 1 7 7 鎌倉大地震
1213 建保 1 8 19 鎌倉大地震
1213 建保 1 9 17 鎌倉大地震
1213 建保 1 12 11 鎌倉大地震
1214 建保 2 2 1 鎌倉大地震
1214 建保 2 4 3 鎌倉大地震
1214 建保 2 9 21 鎌倉大地震
1214 建保 2 10 6 鎌倉大地震
1215 建保 3 9 6 鎌倉大地震
1216 建保 4 6 11 鎌倉大地震
1222 貞応 1 7 23 鎌倉大地震
1222 貞応 1 11 1 鎌倉大地震
1223 貞応 2 5 12 鎌倉大地震
1223 貞応 2 9 26 鎌倉大地震
1224 元仁 1 6 1 鎌倉大地震
1225 嘉禄 1 10 11 鎌倉大地震
1226 嘉禄 2 4 27 鎌倉大地震
1227 安貞 1 3 7 鎌倉大地震
1227 安貞 1 9 3 鎌倉大地震
1227 安貞 1 11 6 鎌倉大地震
1228 安貞 2 5 15 鎌倉大地震
1230 寛喜 1 12 19 鎌倉大地震
1231 寛喜 2 1 22 鎌倉大地震
1235 嘉禎 1 3 9 鎌倉大地震
1237 嘉禎 3 3 9 鎌倉大雨洪水
1237 嘉禎 3 8 4 鎌倉大地震
1239 歴任 1 11 1 鎌倉大地震
1239 歴任 1 11 12 鎌倉大地震
1241 仁治 2 2 7 鎌倉大地震
1241 仁治 2 4 3 鎌倉大地震。M=7.0。津波由比ヶ浜八幡宮の拝殿を壊す
1243 寛元 1 5 23 鎌倉大地震
1247 宝治 1 10 8 鎌倉大地震
1247 宝治 1 11 26 鎌倉大地震
1247 宝治 1 11   鎌倉大地震
1250 建長 2 7 18 鎌倉大地震
1251 建長 3 4 23 鎌倉大雨洪水
1253 建長 5 2 3 鎌倉大風雨
1253 建長 5 2 25 鎌倉大地震
1253 建長 5 6 3 鎌倉大地震
1253 建長 5 6 10 鎌倉大地震
1254 建長 6 7 1 鎌倉大風雨
1254 建長 6 7 18 鎌倉大地震
1256 康元 1     鎌倉大洪水、赤斑病流行
1257 正嘉 1 5 18 鎌倉大地震
1257 正嘉 1 8 1 鎌倉大地震
1257 正嘉 1 8 23 鎌倉大地震。推定M=7.0。震源=相模湾。鎌倉の神社仏閣全壊、家屋転倒被害多、山崩れ多
1258 正嘉 2 10 16 鎌倉大雨洪水民家流失、死者多数
1260 文応 1 6 1 鎌倉大洪水
1265 文永 2 6   鎌倉大雨、扇谷・亀谷の山が崩れ、死傷者を出す
1266 文永 3     鎌倉大地震
1270 文永 7 2 4 鎌倉大風雨
1289 正応 1 2 4 鎌倉大風雨
1291 正応 4 7 1 鎌倉大雨洪水、人家漂流する
1292 正応 5     鎌倉大地震
1293 永仁 1 4 13 鎌倉大地震、M=7.1震源鎌倉。建長寺炎上、寿福寺本殿転倒、大慈寺埋没死者推定23000人位
1305 嘉元 3 6 5 鎌倉大地震
1306 徳治 1 3 2 鎌倉大地震
1316 正和 5 7 23 鎌倉大地震
1323 元享 3 5 3 鎌倉大地震
1343 康永 2 4 15 鎌倉大地震
1343 康永 2 5 6 鎌倉大地震
1348 興国 2 3 8 鎌倉大地震
1419 応永26 10   関東大地震
1419 応永26 12   関東飢饉
1420 応永27 8 10 鎌倉大地震、次いで洪水
1433 永享 1 9 16 関東大地震。M=7.1 震源相模湾。鎌倉被害大。寺社損傷、極楽寺塔損傷。余震20日間
1437 永享 5 5 21 鎌倉大地震
1440 永享 8 9 18 鎌倉大地震
1454 享徳 3 12 10 鎌倉大地震
1463 寛正 4 6 24 鎌倉大風雨
1498 明応 7 8 25 巨大地震、推定M=8.6。津波により大仏殿破壊、溺死者200余人。「明応地震」富士に噴煙
1525 大永 5 5 23 鎌倉大地震(27日まで余震続く)
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [参考文献]
  • 国立天文台:『理科年表』
 
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