|
湘南学園の前身第0310話で紹介したように、鵠沼南部の別荘地に新しい教育機関をという要望は、関東大震災後、別荘地から定住住宅地への変貌によりますます強まった。ことに幼稚園設立への要望が強かったようである。富士 山(たかし)医師の記憶によれば、1925(大正14)年に隈川 基医師が富士医師に呼びかけて、《鵠沼幼稚園》をつくることにした。場所は今の湘南学 園の小学部の隣にあった二階建の木造家屋であった、園児は3人であっ た。続いて1931(昭和6)年、内務省衛生局技師で鵠沼在住の氏原佐蔵氏が、3 月23 日に文部省の認可を得て、私立《爽明学園》小学校ならびに幼稚園を設立したが、氏原の急逝と教育面の指導者難から立ち消えとなった。 以下、第0310話に続き、内藤喜嗣:「富士 山医師と湘南学園」『鵠沼』第93号(2006)から引用する。 富士山医師と湘南学園しかし、この芽は夫人の母堂が玉川学園創立者園長の小原國芳先生の青年時代の後援者だった藤江永正氏に引き継がれ、ご母堂の紹介で教育面の指導者として 小原先生の協力が得られることとなりました。富士先生をはじめ前記の後援者の他に、新たに藤江永正氏、安部政次郎氏、大沼氏など教名の後援者が参集、また先の隈川氏の斡旋で後の経営後援者の東京 螺子製作所社長の松本源三郎氏所有の屋敷(1500 坪の敷地、30 坪の家屋)の借用により、湘南学園が1933(昭和8)年4 月に開校するに至りました。 その後、11 月15 日に安部政次郎氏を代表として設立者登記の変更、9 年2 月2日に校名の変更申請がなされ、晴れて「湘南学園」が誕生しました。 富土:先生は当時のひ弱な別荘族の子弟の健康を心配され、開校時から25 余年の問、校医、戦後はPTA 衛生部々長として、父兄の医・薬関係者を結束、生徒の 健康管理はもとより、保護者父兄を指導されてこられました。 1939(昭和14)年、学園の経営が困窮したおり、先の松本源二郎氏がご自身で学園の経営を受け継がれることになりました。氏は教育、公衆衛生に造詣が深く、 発展する自社、東京螺子の社員の教育・スポーツ・鍛練に努められ、自前の技能者養成所及び青年訓練学校の設立、健康保険組合の設立を率先されました。 そして、同16 年に東京螺子診療所、同17 年には当時の民間企業としては稀有な予防医学研究施設並びに診療所を開設され、富士山医学博士を懇願、要請され、 所長とされたのでした。 富士先生はこれに応え、当時増え続ける社員、全国から集められる徴用工員、学徒動員の学生工員を合わせた一万人を超す従業員の健康管理を徹底、大過なく 乗り切られたのです。 一方、学園については、小原先生の後任の選任に慎重を期し、経験豊かな意中の八木寿治氏を同17 年4 月、園長に迎えられたのでした。(同時に八木先生は東 京螺子青年訓練学校の校長に就任、兼務) 八木先生は最初の朝礼の壇上より見た児童のひ弱な姿に驚き、上級教育を目指すには、秘めたる家庭環境、血筋、素質を延ばすための頑強の身体、忍耐力、規律正しい生活指導に妥協なしと、教育目標を保護者父兄に宣言、理解と協力を求 め、新しい教育をはじめられました。 この八木先生の教育方針を支えたのが、富士山校医と校主の松本源三郎氏で した。富士先生の診察、診療所を使ってのX 線による健康診断、健康増進のため の日々の肝油ゼリー錠の投与と、戦時中の物資窮乏の折りの好意でした。
|
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
|
|
BACK TOP NEXT |