HOME 政治・軍事 経済・産業 自然・災害 文化・芸術 教育・宗教 社会・開発


第0320話 穴あき鉄板の橋

穴あき鉄板のこと

 小松製作所→小松熟練工業鰍フ工場は、大東の辻、現在の森井商店の東側にあったらしい。
 現在、大東の辻の路上には穴だらけの分厚い鉄板が見られる。これはかつてここを流れていた農業用水の橋として架けられていた。
 また、この穴あき鉄板は小松製作所が製品の強度試験に用いたもので、辻堂移転の際に置いていったということをいう人も多い。

 鵠沼を語る会小林政夫会員の説では「辻堂西町の八森稲荷荷の境内にある鉄板は、海岸の海軍演習場で砲弾のテストに使用されるもので、未使用品。使用したものは、鵠沼大東森井商店前の道路に埋められている昔の鉄橋。」とのことである。

 また、大東の長老、故關根佐一郎氏の話では、「皇大神宮から柳原、本鵠沼の駅にかけて堀が流れていた。大東の森井商店前の道に大きな鉄板が敷いてある。森井商店のあたりは窪地で川が流れていて土橋がそこにかかっていた。今の辻堂団地の所は横須賀銃砲連隊の射撃場になっていて、そこに銃砲を運ぶ際にその土橋を壊してしまった。射撃の的に使っていた鉄板を持ってきて橋代わりにしたという。それが今も残っているわけで、当時いろいろなことに権限を持っていた自分が残すようにした。今、鉄板が敷いてあるところに橋があったのではない。いつの時代に鉄板が敷かれたかは自分は知らないが、自分が子供の頃には既に鉄板は橋としてあった。同じような鉄板は少し薄かったけど、竜宮橋のところにもあった。これは非常に貴重なものだから市に良く念を押し、処分しないようにしなくてはならない。」とされる。

 というわけで、この鉄板は土橋を壊した横須賀銃砲連隊が射撃訓練用の鉄板を運んできて架橋したもので、關根佐一郎氏が子どもの頃は既にあった。氏は1913(大正2)年に鵠沼尋常小学校が普門寺境内から現在地に移転したときの新入生だから、小松製作所が創業するはるか以前、明治時代から既にあったということになる。
 この農業用水は1964(昭和39)年に暗渠化された。穴あき鉄板の橋はお役ご免となったわけだが、多分大東の町内会長だった佐一郎氏の意見で、現状のように残されることになったらしい。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 小林政夫:「辻堂の南部の歴史を訪ねる」『鵠沼』第82号(2001)
  • 関根佐一郎:「昔の鵠沼の暮らし」『鵠沼』第90号(2005)
 
BACK TOP NEXT