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肺結核療養旅館第0160話で触れたように、鉄道が開通した頃から湘南海岸一帯にサナトリウム(結核療養所)の開設が相次いだ。ところが、現藤沢市域には不思議に開設されなかった。それに代わるものとして鵠沼海岸に並んだ3軒の旅館や貸別荘が用いられ、1906(明治39)年伊東將行は埼玉県吹上出身の医師=福田良平を招聘して東屋に隣接した《鵠沼海浜医院》を開設した。 これは鵠沼村最初の近代的医療機関であり、大いに繁昌したというが、結核専門の機関ではなかった。小規模な医院は、昭和初期に辻堂と片瀬(当時は鎌倉郡)に開かれたらしい。 『藤沢市史年表』には1932(昭和 7)年5月 31日に「結核療養所の開設予定を巡り、鵠沼の旅館建設に反対運動起こる」とある。さらに 6月15日には「藤沢町民大会が開かれ、肺結核療養旅館建設の反対を決議し、知事に陳情。結果、設置中止ということで解決した。」とある。 このように『藤沢市史年表』には掲載されているが、『藤沢市史』本文には見当たらない。.『藤沢市史年表』は、『橫濱貿易新報』や『湘南新聞』などのバックナンバーを調べて制作されたようなので、その辺を当たればもう少し詳しい事情が判るかも知れない。『藤沢市史年表』の記述では《結核療養所》というよりも《肺結核療養旅館》だったようだ。場所も鵠沼とあるだけでそれ以上詳しい場所は特定できない。 大出サキさんの記憶によると、「川側の各務さんのところですが、昭和4 ~ 5年ごろ、結核療養所の建設計画が持ち上がり反対運動がおき取り止めになりました。当時は藪で池があり鷺が来ていました。前は川で、療養所にはいい場所だったのでしょう。」 とあるのがそれらしい。旧小字では下藤ヶ谷、現住居表示では鵠沼松が岡一丁目の《下藤ヶ谷公園》附近だろう。 また、鵠沼海岸商店街の調査記録には「商店街の一角結核療養所計画。反対運動起こる(昭7)」とある。 場所については大出説を採りたい。 | ||||||
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