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藤澤カントリー倶樂部1932(昭和7)年5月29日、相模野台地の南端にゴルフ場《藤澤カントリー倶樂部》がオープンした。前々年に設立された藤澤ゴルフ株式會社(資本金50万円)が株主のみを会員として建設した。コース設計は石井光次郎、堀米庸之介、田中善三郎、赤星四郎、クラブハウスはアントニン・レーモンド設計という本格的なもので、後に女性専用の《メリーゴルフ倶樂部》が一時期併設された。 藤澤カントリー倶樂部が発足した時代は、世界恐慌に発する《昭和恐慌》の波に日本が呑み込まれた頃だが、不況対策の一環で設立されたという側面も持つ。事実、鵠沼地区の農家の青年にキャディーやコース整備などの働き口を与えることとなったという。 この地の一角には藤澤町の火葬場があった。ゴルフ場設置に伴い、火葬場を町の東端の西富に移設することになった。施設そのものが老朽化していたため、いずれにせよ建て替える必要はあった。ところが地元や隣接する鎌倉郡大正村の住民が猛反対運動を起こした。この間の事情については第0299話で若干触れておいた。 藤澤カントリー倶樂部の命は10年余りと短かったが、東久邇宮稔彦王、岩崎小彌太、近衛文麿、大佛次郎、鈴木三郎助などがプレーし、日本有数のチャンピオンコースでもあった。 太平洋戦争に突入すると、全国のゴルフ場は全て閉鎖され、多くは農業用地に転換された。藤澤カントリー倶樂部の場合は1943(昭和18)年に閉鎖され、同地周辺が横須賀海軍航空隊の基地となり、翌年藤澤海軍航空隊が置かれ、南部は海軍藤澤飛行場となり、クラブハウスは司令部として用いられた。 戦後、かなりのゴルフ場は復旧するが、藤澤カントリー倶樂部の場合は海軍藤澤飛行場は東洋航空藤沢飛行場として利用され、その他は《神奈川県立教育センター(現総合教育センター)》、《神奈川県立体育センター》、《藤沢商業高等学校(現藤沢翔陵高等学校)》、《聖園女学院》などの文教地区となった。旧クラブハウスは《グリーンハウス》と呼ばれ、体育センターの合宿所として利用されてきたが、現在は一部が食堂となっている。戦前のアントニン・レーモンド設計のクラブハウスは4か所あったというが、現存するのは藤沢のみである。文化財としての指定が望まれているが、現在までのところ指定はない。 赤星兄弟鹿児島の旧郷士出身の実業家、赤星弥之助は、先ず神戸港の築港工事を引き受けて大金を得た。次いで薩摩藩の海軍御用掛となり、日清戦争後は英国に発注した軍艦に取りつける銃器全般のアームストロング社(本社マンチェスター)の代理店・鉄砲商を営み、巨万の財をなした。その金で古美術を買い占めて、薩摩人には珍しく蓄財した。赤星弥之助は、妻=靜との間に以下の六男六女をもうけた。
ことに六郎は日本ゴルフ史に燦然と輝く記録を残している。在米時代の1924(大正13)年、ノースカロライナ州パインハーストCCで開かれたスプリングス・トーナメントで優勝しているが、これが海外の大会で日本人が優勝した最初の記録である。帰国後の1926(大正15)年、程ヶ谷カントリー倶楽部で行われた日本アマチュア選手権では兄の四郎が優勝、弟の六郎が2位と兄弟でワンツーフィニッシュを飾った。翌年の1927(昭和2)年5月28日、第1回全日本オープン・ゴルフ選手権大会が横浜の程ヶ谷カントリー倶楽部で開催された。このとき参加者は、アマ12人、プロ5人。アマの赤星六郎は2位の鶴見プロに10打差で優勝した。 赤星弥之助は、1904(明治37)年頃、大磯の東小磯425外地籍約一万坪に《赤星御殿》と噂される別荘を構えた。門を入ると広い砂利道を囲んで植え込みがあり山の麓にある洋館の玄関に続く、ジョサイヤ・コンドル設計である。残念なことに、今その面影は感じられない。古美術の収集家で井上馨、田中光顕(あき)らと五指に数えられた。 赤星家は東京神楽坂にあったが、以来神奈川県とも様々な関係が生まれる。例えば、
鵠沼とのゆかり赤星四郎は、藤澤カントリー倶樂部の設計担当段階の1931(昭和6)年から、その一角にレーモンド設計の別荘を構えた。海軍摂取時にその建物を鵠沼桜が岡三丁目の熊倉通り沿いに移築して居住し、1971(昭和46)年5月5日、鵠沼の自宅で没した。赤星五郎については、大正火災副社長(千代田火災)だったということしか調べがついていない。生没年月日も不明である。鵠沼藤が谷に自宅を構え、この地で没した。 |
藤澤カントリー倶樂部年表・赤星四郎年譜 |
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西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 |
1895 | 明治28 | 赤星四郎、赤星弥之助、静の四男として東京神楽坂に生まれる | ||
1901 | 明治34 | 4 | 赤星四郎、麻布小学校に入学 | |
1904 | 明治37 | 頃 | 赤星弥之助、大磯に1万坪の敷地にジョサイア・コンドル設計による洋館《赤星御殿》を建てる | |
1907 | 明治40 | 4 | 赤星四郎、麻布中学に進学。赤星六郎、麻布小学校に入学 | |
1913 | 大正 2 | 赤星四郎、渡米、ローレンスビルハイスクールを経てペンシルベニア大学に学ぶ | ||
1917 | 大正 6 | 赤星弥之助、没。鉄馬、保有していた美術コレクションを売却。(赤星家売立) | ||
1921 | 大正10 | 赤星四郎、帰国。同年徴兵、1年の兵役につく。近衛中尉で除隊 | ||
1923 | 大正12 | 赤星四郎、スタンダード石油入社。帰国以来ゴルフに打ち込む | ||
1924 | 大正13 | 赤星六郎、スプリングス・トーナメントで優勝(日本人海外初優勝) | ||
1925 | 大正14 | 赤星鉄馬、芦ノ湖へブラックバスを移入 | ||
1925 | 大正14 | 赤星四郎、スタンダード石油退社。ゴルファーとして活躍 | ||
1926 | 大正15 | 9 | 日本アマチュア選手権。赤星四郎、優勝。2位は弟の赤星六郎 | |
1927 | 昭和 2 | 5 | 28 | 第一回日本オープン。赤星六郎、優勝。赤星四郎、4位 |
1930 | 昭和 5 | 3 | 19 | 横浜の政財界人により、藤澤ゴルフ株式會社設立発起人會が開かれる |
1930 | 昭和 5 | 4 | 藤澤ゴルフ株式會社設立(資本金50万円)。株主のみを会員として藤澤カントリー倶樂部が発足 | |
1930 | 昭和 5 | 9 | 杉山雅則(レーモンド設計事務所)がクラブハウスの設計を開始 | |
1931 | 昭和 6 | 2 | チャールズ・ヒュー・アリソンが実施踏査の上、コース設計に対して意見具申 | |
1931 | 昭和 6 | 3 | 設計が完了 | |
1931 | 昭和 6 | 5 | 起工。藤澤町の長工務所が建設 | |
1931 | 昭和 6 | 10 | 18 | 9ホール仮オープン |
1932 | 昭和 7 | 4 | 竣工 | |
1932 | 昭和 7 | 5 | 29 | 開場。久邇宮朝融王、鳩彦王妃允子内親王(朝香宮鳩彦王妃)が来場 |
1933 | 昭和 8 | 10 | 2 | 日本プロゴルフ選手権大会 |
1934 | 昭和 9 | 11 | 16 | ベーブ・ルースが、赤星四郎とともにプレイ |
1937 | 昭和12 | 関東クラブ対抗競技 | ||
1938 | 昭和13 | 10 | 11 | ~10/13、日本オープンゴルフ選手権競技 |
1943 | 昭和18 | 10 | 24 | 閉鎖。同地周辺が横須賀海軍航空隊の基地となる |
1944 | 昭和19 | 赤星四郎、藤沢CC内にある別荘を鵠沼に移築し、住居とする | ||
1944 | 昭和19 | 6 | 1 | 藤沢海軍航空隊が置かれる。クラブハウスは司令部として利用 |
1945 | 昭和20 | 8 | 25 | 藤沢海軍航空隊、解隊 |
1953 | 昭和28 | 4 | 8 | 東洋航空藤沢飛行場の供用開始 |
1964 | 昭和39 | 10 | 31 | 飛行場供用廃止 |
1971 | 昭和46 | 5 | 5 | 赤星四郎、鵠沼の自宅で没 |
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献/サイト]
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