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滅び行く湘南の鵠沼片瀬を弔う碧波ヲ距テヽ緑翠ノ孤島江ノ島卜相對シ更ニ遙ニ富嶽ヲ盟主トスル駿、豆、相、甲連山ノ展望ヲ擅マニシ、大島ノ噴煙、眞鶴岬ノ斗出ヲ指呼ノ間ニ望見シ得ル湘南ノ鵠沼、片瀬ガ小田急電車支線ノ建設二伴ヒ開發ニ亞グニ開發ヲ以テシ、貴顯ノ邸宅別莊ノ造營相次グノ盛況ヲ見ルニ至リ、今後更二一層殷ナルモノアラントスルニ「亡ビ行ク」トハ何故ナリヤト間フ粹客ハ多カラント雖モ之ヲ弔フモノハ往時ノ鵠沼、片瀬ヲ低囘スル吾人ノ外ニハアルマイ吾人ハ好ンデ奇説ヲ唱へントスルノデハナイ、タヾ過去ノ、自然ノ、人類ノ魔手ニ黷サレザリシ鵠沼、片瀬ヲ知リテ自然ノ征服者デアリ破壞者デアル文化人ニ接シタル今日ノ鵠沼、片瀬ヲ見ルトキ吾人ハ亡ビ行ク自然ノ鵠沼、片瀬ノ爲メ一言ノ弔辞ノ胸裏ニ湧出シ來ルヲ禁ジ得ザルノデアル、鳴呼悲哉 想起スレバ昔日ニ於ケル鵠沼ヤ片瀬ハ吾等同好ノ好採集地デアッタ、好個ノ濕砂原デアッタ、吾人ニ否、植物ニ好適地デアッタ、サレバみゝかきぐさ、むらさきみゝかきぐさ、ほざきのみゝかきぐさ、いぬせんぷり、ごまくさ、ひめたで、やなぎぬかぼナドハ此處ニ生育シ日々是好日卜樂ンデ居タ、マタくろまつヤ楊柳ノ間ニハ濕潤ノ小地点散在し「ボタニスト」一日ノ行樂ニ適シ池畔、溝渠ノ土手ニハべんけい蟹ノ横行スルノガ見エタ、牧野博士ハ曾テ此處ニひめたでヲ檢シ此處ニはまかきらんヲ命名シタノデアルガ今ヤ此等ハ減少シ或ハ忽焉トシテ泯滅シタ、鳴呼悲哉 昭和六年秋九月余ハ有志卜此ノ思ヒ出多キ曾遊ノ地ニ來リ延々タル電鐵ノ線路ヲ見、其上ヲ去來スル高速度ノ「モダンカー」ヲ見、マタ其中ニ何心ナク嬉々トシテ談笑スル老若男女ヲ睹タ、然シテ鐵路ニ並行シテ設ケラレタル新屋ノ數々ヲ見タ、更ニ人智最上級ノ技ニヨリ成就セル排水工事ノ完成ヲ見タ、サレド此處ニ昔日ノ珍草ナク獨り茅花ノ繁殖シテ彼等ニ代レルニ接シ吾人ハ茅花秀テ奇草亡ブノ感深キモノガアッタ、鳴呼悲哉勿論此等ノ植物ハ此地ノ特産デハナイ、邦内ヲ通ジテ各地ニ絶無デハナイ、サレド人文ノ発達ニ伴ヒ彼等ガ其故郷ヲ、住居ヲ失ヒタルヲ想フトキ吾人ハ一掬ノ涙ナキヲ得ナイノデアル、由テ余ハ此處ニ往時ノ主要ナルモノニテ近時之ヲ見ザルニ至ッタ、マタ減少シタ前記諸種ヲ記録シテ幾星霜後ニ於ケル同好へノ置土産トスルト同時ニ此等植物ヲ記念シタイノデアル、希クハ植物ノ靈來リ之ヲ饗ケヨ 尚邦内各地ノ發展ノ結果トシテ鵠沼、片瀬ノ現状ニ類セルモノハ十指ハ勿論百指ヲ以テシテモ勝テ數フルコトノ出來ヌ程アルデアラウガ此等不幸ノ地ニ生ジテ亡ビ行ク植物ヲ今ニシテ記録シ置カザレバ徒二悔ヲ永久ニ殘スコトニナルデアラウ、然シテマタ之ヲ記録スルコトハ單ニ學術上大切デアルパカリブナク徳義上カラモ大切デアル、シカモ斯ノ如キ道義心ハ義務的ニ行フ徳義デハナイ、強ラレテ爲ス行爲デハナイ、實ニ人問トシテ行ハナケレバ自カラ満足出來ナイ行爲ナノデアル 義理デ爲ス行ヤ、名譽ノ爲、利害関係ノタメ爲スコトハ世間ニハ甚多ク其価値カラ言へバ糞士ノ如キモノデアルガ其様ナ下卑タ動機カラデナク人間本來ノ心カラ必然的ニ湧出スル行爲トシテ亡ビ行ク植物ヲ記錄シテ置キタイノデアル 天下ニハ同好ノ賢人ガ雲ノ如クニ居ラレルガ其内ニハ余卜同感ノ君子モ鮮クアルマイ、然シテ余ハ諸賢ノ高德ニヨリ幾多ノ亡ビ行ク植物ノ過去帳ガ出來上ランコトヲ希フモノデアル、今亡ビ行ク湘南ノ小地点ヲ弔フニ際シ一言希望ヲ開陳シテ置ク、昭和六年冬十二月記ス 久内清孝は、東邦大学薬学部教授の植物分類学者。牧野富太郎を師と仰ぎ、夏目漱石や木下杢太郎と親交があるなどのエピソードでも知られる。《橫濱植物の會》にも所属し、神奈川県周辺を主なフィールドとしていた。 特に帰化植物の研究を中心にしており、著書は少ないが『帰化植物』(1950)がある。 なお、ゆかりの植物にヒサウチソウがある(久内草 学名:Bellardia trixago,)ゴマノハグサ科ヒサウチソウ属 地中海沿岸原産の半寄生の植物、地下で他の植物の根から養分を吸収しているらしい。1982年に名古屋市から報告されたのが最初で、西日本に分布する。ヒサウチソウの名の由来は、帰化植物研究家久内清孝氏より。 神奈川県の植物については、以下の論文が知られる。
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