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第0311話 一木與十郎町長

五番目の藤澤町長一木與十郎

 第0299話で紹介したように、1931(昭和6)年2月13日に藤澤町長に再任した隈川 基(海軍予備役軍医少将)は、同年9月23日に病気を理由に辞任を申し出る。
 10月の町会で、1930(昭和5)年1月21日に隈川に対抗して推され、海・陸軍将官が町長候補として対抗するという珍らしい事態になった結果、抽選で町長の座を隈川に譲った形の一木與十郎(陸軍予備役少将)を後任に推すことが決議され、一木はそれを承諾した。
 一木與十郎は当初政治的に中立の立場をとったが、彼の任期中に町立の3小学校の高等科を併合して藤沢高等小学校を創立する建議が一部議員から提出され、町側もそれに賛同して推進しようとした。しかし、明治地区を中心に反対意見が出され、この問題は紛糾した。この紛糾の間に都市計画法の適用に関する県知事への答申、内務大臣への申請が藤澤町だけ反対派の存在によってなされず、県当局からも問題視された。
 これら両問題がようやく解決を見た1933(昭和8)年12月25日に行われた町会議員選挙で、議員の顔ぶれが3分の2まで入れ替わり、政友派の勢力が急伸し、民政派を抑えるに至った。このため、事実上民政派の支持に頼っていた一木町政に対する政友派の攻勢は当然強まる情勢となった。翌1934(昭和9)年3月1日、次年度予算案の委員会における審議の最終段階で、政友派委員から出された減額要求を、一木町長は理事者不信のあらわれと受け取り、直ちに辞意を表明して役場から去った。
 一方、一木與十郎の町長任期中に、鵠沼の中岡耕地整理事業と県による引地川下流の改修事業が完成し、それぞれ記念碑が建てられた。両碑共に撰文は一木與十郎が担当したが、なかなかの名文である。
 また、中岡耕地整理事業によって整備された中央道路は《一木通り》と命名され、後に1973(昭和48)年1月10日に鵠沼松が岡4丁目に開園した街区公園は《一木公園》と命名された。このように、道路や公園の名に固有名詞が残っている例は提供地主の例はあるが、その他は少ない。鵠沼地区では一木與十郎が地元民から敬愛されていた証拠だろう。
 『大藤澤復興市街圖』によれば、一木町長の自宅は、熊倉通り小田急踏切のすぐ北側にあった。
一木與十郎略年譜および鵠沼関係年表    
西暦 和暦 記                        事
1876 明治 9     一木與十郎、福岡に生まれる
1897 明治31     陸軍士官学校(10期)卒業。陸軍砲兵少尉任官
1905 明治38     陸軍砲兵大尉。日露戦争の旅順要塞攻撃に参加
1906 明治39     陸軍大学に入学
1908 明治41     陸軍大学を卒業。陸軍砲兵学校教官
1911 明治44     陸軍砲兵少佐。台湾基隆要塞参謀
1913 大正 2     下関要塞参謀
1918 大正 7     陸軍砲兵中佐。陸軍砲兵学校教育部長
1920 大正 9     陸軍砲兵大佐
1923 大正12     軍事視察のため欧米出張
1924 大正13     陸軍少将。野戦砲兵第3旅団長→予備役編入
        鵠沼移住の時期は1930年までの間と思われる
1931 昭和 6 9 23 隈川町長が辞職する
1931 昭和 6 10 3 一木與十郎、藤沢町長に当選する
1931 昭和 6 12   町会に民政党5名から高等小学校新設に関する建議案→可決
1932 昭和 7 1 20 高等小学校新設議案提出→可決→委員会付託→撤回
1932 昭和 7 2 15 町側が撤回理由説明→特設高等小学校設置ノ件、一部議員から提出→撤回
1932 昭和 7 3 29 町会に18名から高等小学校新設に関する建議再提案
1932 昭和 7 4 2 高等小学校新設に関する建議可決
1932 昭和 7 5 31 結核療養所の開設予定を巡り、鵠沼の旅館建設に反対運動起こる
1932 昭和 7 6 15 藤沢町民大会、肺結核療養旅館建設の反対決議→知事に陳情→設置中止ということで解決
1932 昭和 7 7 中岡耕地整理起工
1932 昭和 7 9   明治地区選出の調査委員、辞表を提出
1932 昭和 7 10 11 高等小学校ノ位置ヲ定ムル件提案(藤沢地区西横須賀の1町8反の畑地を用地とする)
1932 昭和 7 10 13 高等小学校ノ位置ヲ定ムル件、強行採決→議場大混乱
1932 昭和 7 12 県当局、一木町長に両派の歩み寄りを促す条件を提示
1933 昭和 8 2 25 高等小学校建設費を含む次年度予算案審議→紛糾 
1933 昭和 8 3 1 次年度予算案、強行採決→議場大混乱
1933 昭和 8 3 県当局、藤澤町からの記載申請\80,000を\60,000に切り下げて大蔵省に上申。敷地変更指示
1933 昭和 8 3 新設校推進派・反対派の協議会。用地を鵠沼地区の内田・長塚の1町7反に変更提案
1933 昭和 8 5 13 大蔵省、起債認可。\57,000に切り下げられる。内務・文部大臣からの高等小学校新設許可
1933 昭和 8 5 19 町会で高等小学校新設の諸議案可決
1933 昭和 8 6 工事請負業者決定。高等小学校新設工事、着工
1933 昭和 8 8 中岡耕地整理竣工。中央通り、一木通りと称せられる
1933 昭和 8 9 16 藤澤高等小學校、上棟式
1933 昭和 8 10   『中岡耕地整理紀功碑』、鵠沼松が岡 4-19-5 小田急踏切り脇に造立。撰:一木與十郎
1933 昭和 8 11 14 藤澤高等小學校(現藤沢第一中学校)開校式
1933 昭和 8 11 14 鵠沼尋常高等小學校の高等科が藤澤高等小學校に統合され、鵠沼尋常小學校と改称
1933 昭和 8 11 17 町会に都市計画法の適用申請について諮問→委員会通過
1934 昭和 9 2 引地川改修事業完成。『紀功碑』、鵠沼海岸2-17地先引地川河畔に造立。撰:一木與十郎
1934 昭和 9 3 1 一木與十郎、町長を辞任、町長の職務管掌として県属斎藤道金が来任
1934 昭和 9 5 8 6代藤沢町長に大野守衛就任
1940 昭和15     一木與十郎、没
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市:『藤沢市史』第6巻(1977)
  • 加藤徳右衛門:『現在の藤澤』(1933)
  • 竹中英輔:「一木通り草莽記」『鵠沼』第80号(2000)
  • 渡部 瞭:「鵠沼人=髙瀬弥一」『鵠沼』第89号(2005)
 
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