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文化の違い岸田劉生が鵠沼に転居し、佐藤別荘に住んだ時代、近所の漁師葉山家のシゲが手伝いに入った。シゲは鵠沼尋常高等小學校尋常科2年の次女、マツを連れてくることがあり、岸田家長女の麗子とマツはすぐに友だちになった。『麗子像』とともに劉生鵠沼時代に多作された『村娘像』のモデルである(昨年百歳を迎えられ、市内にご健在)。マツが麗子に最初に教えたのは、庭先でショウロを掘ることだった。大きなショウロを掘り出したマツは、「でっけえショウロ!」といい、麗子はそれをまねて「でっけえショウロ!」と母親に報告した。これを聞き咎めた岸田蓁(しげる)夫人は、麗子が荒い鵠沼方言を覚えることを心配し、麗子が学齢に達すると、地元の鵠沼尋常高等小學校尋常科に入学させずに鎌倉師範附属小学校を受験させた。 このように、鵠沼海岸別荘地の「別荘族」は、子弟を地元の学校に入れることを避ける傾向が見られた。それには主に次の理由がある。
その事情について、『鵠沼』第93号に内藤喜嗣氏が寄稿された「富士山医師と湘南学園」の中に紹介されているので、以下にその部分を引用する。 湘南学園の前身1929(昭和4)年に小田急電鉄江ノ島線が開通して、移住者がさらに多くなって来た1931(昭和6)年、住民の新しい学校の設立の機運が結実しました。その中心人物は、内務省衛生局技師で健康のため鵠沼に移住していた氏原佐蔵氏で、3 月23 日に文部省の認可を得て、私立爽明学園小学校ならびに幼稚園を設立しました。これには友人であった内務省技官の内山鋳之吉氏、予備役海軍々医少将で前藤沢町長の隈川基氏、富士山医師など、健康衛生と子弟の教育に造詣の深い方々の参画で、空別荘を借りて開校したものの、氏原氏の急逝と教育面の指導者難から立ち消えとなりました。 しかし、この芽は夫人の母堂が玉川学園創立者園長の小原國芳先生の青年時代の後援者だった藤江永正氏に引き継がれ、ご母堂の紹介で教育面の指導者として小原先生の協力が得られることとなりました。 文中に出てくる人名を整理しておく。 | ||||||
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