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第0310話 幻の私立爽明学園

文化の違い

 岸田劉生が鵠沼に転居し、佐藤別荘に住んだ時代、近所の漁師葉山家のシゲが手伝いに入った。シゲは鵠沼尋常高等小學校尋常科2年の次女、マツを連れてくることがあり、岸田家長女の麗子とマツはすぐに友だちになった。『麗子像』とともに劉生鵠沼時代に多作された『村娘像』のモデルである(昨年百歳を迎えられ、市内にご健在)。
 マツが麗子に最初に教えたのは、庭先でショウロを掘ることだった。大きなショウロを掘り出したマツは、「でっけえショウロ!」といい、麗子はそれをまねて「でっけえショウロ!」と母親に報告した。これを聞き咎めた岸田蓁(しげる)夫人は、麗子が荒い鵠沼方言を覚えることを心配し、麗子が学齢に達すると、地元の鵠沼尋常高等小學校尋常科に入学させずに鎌倉師範附属小学校を受験させた。
 このように、鵠沼海岸別荘地の「別荘族」は、子弟を地元の学校に入れることを避ける傾向が見られた。それには主に次の理由がある。
  • 別荘地から通学距離が長く、子どもの足では30分以上もかかった。
  • 上記のような方言や服装などの文化の違い。
  • 「別荘族」は少数派であり、いじめにあった。
 その対処方法には次の例が見られた。
  • 藤澤尋常高等小學校尋常科に入学させる:江ノ電沿線にその傾向が強く、小田急開通後は沿線にその傾向が見られた。その時代の代表例に阿部昭がある。
  • 家庭教育で間に合わせ、小学校に入学させない:内藤千代子が挙げられるが、他に例を聞かない。
  • 鎌倉師範附属小学校など、他地域の学校に通学させる:岸田麗子が好例。
  • 暁星學校や慶應幼稚舎など東京の小学校の寄宿舎に入れる:長谷川龍三(路可)が好例。
 関東大震災以後、別荘地から定住住宅地への変貌により、旧別荘地の人口が増加すると、住民の間に幼稚園・小学校を旧別荘地に設立したいという要望が膨らんできた。この問題を解決したのが1933(昭和8)年の私立湘南学園の創設であることはよく知られているが、実はその前身といえる私立学校の創設が具体化していたことは余り知られていない。
 その事情について、『鵠沼』第93号に内藤喜嗣氏が寄稿された「富士山医師と湘南学園」の中に紹介されているので、以下にその部分を引用する。

湘南学園の前身

 1929(昭和4)年に小田急電鉄江ノ島線が開通して、移住者がさらに多くなって来た1931(昭和6)年、住民の新しい学校の設立の機運が結実しました。
 その中心人物は、内務省衛生局技師で健康のため鵠沼に移住していた氏原佐蔵氏で、3 月23 日に文部省の認可を得て、私立爽明学園小学校ならびに幼稚園を設立しました。これには友人であった内務省技官の内山鋳之吉氏、予備役海軍々医少将で前藤沢町長の隈川基氏、富士山医師など、健康衛生と子弟の教育に造詣の深い方々の参画で、空別荘を借りて開校したものの、氏原氏の急逝と教育面の指導者難から立ち消えとなりました。
 しかし、この芽は夫人の母堂が玉川学園創立者園長の小原國芳先生の青年時代の後援者だった藤江永正氏に引き継がれ、ご母堂の紹介で教育面の指導者として小原先生の協力が得られることとなりました。

 文中に出てくる人名を整理しておく。
  • 氏原佐蔵:(うじはら すけぞう)衛生行政に携わった医者。 内務省衛生局技師。 防疫官兼内務技師。 衛生局防疫研究課長。鵠沼在住。
  • 内山鋳之吉:(うちやま いのきち)内閣情報部. 情報官。大正期の東京帝国大学セツルメント参加者。
  • 隈川 基:(くまかわ もとい)海軍予備役軍医少将→第4代藤澤町長。第0299話参照
  • 富士 山:(ふじ たかし)開業医・《鵠沼を語る会》会員。第0226話参照
  • 小原國芳:(おばら くによし)教育学者。学校法人玉川学園の創立者。日本基督教団のクリスチャン。
  • 藤江永正:(ふじえ ながまさ)調査中
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 内藤喜嗣:「富士山医師と湘南学園」『鵠沼』第93号(2008)
 
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