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第0299話 隈川基町長

町政の混乱と湯原町長

 第0285話で紹介したように、昭和になってからの藤沢町長は、湯原直平(地方官僚 1929.1~)、隈川 基(海軍予備役軍医少将 1930.3~)、一木與十郎(陸軍予備役少将 1931.10~)、大野守衛(外交官 1934.5~)と、短命(大野は町長・市長を継続して8年務めたが)で、かつての地元旧家出身の政治家でなく、鵠沼・辻堂の新興住宅地に移り住んだ官僚・軍人・外交官が、政争に関係なく無難だとして妥協案で担ぎ出された形である。

 1929(昭和4)年1月29日、町会の選挙会が開かれ、出席した20名の町議が一致して地方官僚出身の湯原直平に投票した。こうして、およそ半年にわたった紛争は、地元外から町長を迎えることで一応おさまるにいたった。
 新任の湯原町長は、滞納税金の整理や国・県の補助による震災復旧土木工事の促進等に力を注ぎ、藤沢町政の遅れを取り戻そうと努めた。町会もさし当たっては新町長に協力する姿勢を示したが、それによって地元における政派の対立が解消したわけではなかった。町会に多くの議席をもつ政友会派に民政派は奮起、町政に対して野党的立場を急速に強めた。湯原町長時代の町政の動きを列挙して見ると、藤沢町吏が滞納税金を督促徴収して持逃げした事件の暴露、明治小学校の校舎建設工事にまつわる疑獄事件、高座畜産組合の藤沢競馬会の疑獄事件などが次々に発覚し、ついには町民代表委員が湯原町長に面会し辞職を勧告した。この時点では、政友系議員たちも世論に抗しえないことを認めざるをえなくなり、同月末には町議の総辞職が行なわれるにいたった。助役や主事の検挙に続いて、町会の機能が停止したため、孤立した湯原町長は、11月4日、県知事山県治郎のもとへ辞職を願い出た。知事はこれをただちに認め、県属木内松次を町長職務管掌として派遣した。  

普選法による町会選挙

 議員の総辞職にともなって、藤沢町としてははじめての普選法による町会議員選挙が行なわれることになった。選挙の告示は12月19日で投票は同月29日と決定した。定員の6名増加は、人口増に対応した改正であった。選挙の結果当選したのほ、前議員6名、元議員3名、新人21名であるが、そのうち純政友会派は新旧ふくめわずか5名にとどまった。 

第4代藤澤町長隈川 基の選任

 新発足の町会にとっては、まず町長を選ぶことが緊要の課題であった。これに関する審議は、年が明けると早々に開始された。1月6日、湯原町長就任に際して定められた「町長有給条例」の廃止が可決され、地元から名誉職の町長を選ぶ原則が復活した。同月9日には、町長選挙の方法について審議し、結局、町長選考委員会を設けて、これに付託する方式を採ることに決定した。そこで、ただちに全員委員会を開き、藤沢地区から5名、明治地区および鵠沼地区から各3名の選考委員を連記投票によって選んだ。選考委貞会では、各委員が3名ずつの候補者を選んで無記名投票をした結果、7名の名前があがり、そのうちで、町の元老格である川上安次郎の票数が最も多かった。1月11日には、この経過が全員委員会で報告され、川上を町長に推すことが決定した。ところが、川上は健康がすぐれぬうえに「現下ノ町理事老タル器二非ス」との理由で就任を辞退した。
 選考委員会は、あらためて1人の候補者を全員一致で推薦する方針を決めた。しかし、各委員の属する政派や地区の利害がからんで、町長候補を1人にしぼることはきわめてむずかしくなった。鵠沼地区の民政党派議員は、この機会に地元の高松良夫の町長就任を実現することを期し、藤沢民政倶楽部の首脳たちもこれを支援した。ところが、同じ民政党系のうちには、前回の町長選出をめぐる抗争の際に一方の中心人物であった高松を推すことに反対する一派もあった。彼らは、「権謀術策を忌避し、公明なる正道を歩む」との立場で民政同志会を組織した。政友会派は、この同志会や中立色の膿い議員と提携することによって退勢を挽回しようとした。同派としては、はじめ明治地区羽鳥の素封家で、政泊的には金子元町長に近い三觜舜太郎を推す方針をたてたが、民政同志会等の賛同をえられなかった。そこで、あらためて協議した末、鵠沼に住む予備役海軍軍医少将隈川基を推すことにした。隈川は上述した町民大会で演説した経験があり、町政の動向に少なからず関心を向けていたらしい。一方、民政党主流側では、相手方が隈川を立てた直後に高松の推薦を断念し、やはり鵠沼に住む予備役陸軍少将一木與十郎を推すことにした。こうして陸・海軍将官が町長候補として対抗するという珍らしい事態になったわけだが、町会における両者の支持勢力は伯仲し、選考委員会ではいずれとも決しかねた。1月21日午後に開かれた全員委員会において、兼子議員が、中立の立場をとる葉山繁蔵議員を委員長にして両派から各3名が参加する協調委員会を設け、妥協方法を協議することを提案し、賛同をえた。協調委員会は、格別の妙案も出せず、全員委員会で仮投票を行なって最終的に候補者を決めるほかはないとし、万一隈川・一木の得票が同数になった場合には抽選によって決することを提案した。全員委員会ではこれを受け容れてただちに投票を行なったところ、まさに両者同数の得票という結果が出た。止むをえず抽選を行ない、隈川が当選した。引続いて本会議が開かれ、満場一致の指名推薦で隈川が町長候補に決定した。彼は26日に就任を正式に受諾した。右のような経過についてほ、その後、民政倶楽部派のうちに不満を唱える議員があったが、3月13日、隈川町長就任後最初の町会で、葉山議員らが緊急動議として提出した隈川町長信任決議案が可決されたので、波乱をおこすまでにはいたらなかった。3か月におよぶ町政の空自を埋め、町会の信用を回復しようとする気運が高まっていたのである。もっとも、1月21日に浜口民政党内閣が第57議会の解散を断行し、2月20日に総選挙が行われることになっていたので、町議たちもその方へ関心を向けざるをえなくなったという事情もあった。  

第1次隈川町政

 藤沢において隈川町政が最初の仕事である1930(昭和5)年度予算案の編成に着手した時には、恐慌はまだ表面化していなかった。しかし、政府の緊縮財政による不況の進行に即応して町財政の節減をはかることは不可避の課題であった。2月26日、町会に提出された原案によると、予算総額は\261,697で、前年度当初予算にくらべ\64,862におよぶ大幅な節減ぶりであった。歳出面では、各款にわたる需用費・行政事務視察費・土木事業費などを思いきって削減し、町庁舎増築計画もとりやめることにするとともに、一方では教員賞与・汚物掃除費をふやし、塵芥焼却場建設費・商工会設置奨励費・野営海水浴場設置費などを新たに計上した。歳入面では、国税負担者に対する町税賦課率を増すとともに、特別税戸数割の負担軽減をはかり、あるいは\22,000におよぶ幽霊繰越金を切捨てて税収入に充てるという措置をとることにした。総体としてみれば、町民の生活安定少負担の公平、それに町の振興についてできるだけの配慮を示していた。町会もこの点を認め、原案をそのまま認めたのである。なお、この町会にほ、葉山繁蔵をはじめとする16名の議員が、町会の各種委員会を住民に公開することを掟案し、可決をみた。これは、町政に対する住民の信頼を回復するための措置であった。
 町税滞納 1930(昭和5)年度の予算は成立したものの、藤沢町財政にとっては、なお町税滞納の整理という難問が残されていた。3月上旬現在で、町税の過年度滞納額が\23,311、前年度分のそれは\59,005余、合計して\82,317余に達していた。このような事態を生じた原因として、徴税事務の不手際や一部町民の安易な納税感も一応考えられるだろうが、基本的にほ、やはり大正末年以来の打続く不況の影響をあげるべきであろう。
 『大藤澤復興市街圖』によれば、隈川町長の自宅は、賀来神社のすぐ北側にあったようである。
隈川 基略年譜および鵠沼関係年表    
西暦 和暦 記                        事
1874 明治 7 8 17 隈川基、誕生
1898 明治31 12 27 海軍少軍医候補生
1900 明治33 1 19 海軍少軍医
1901 明治34 10 1 海軍中軍医
1903 明治36 9 26 海軍大軍医
1908 明治41 9 25 海軍軍医少監
1912 大正元 12 1 海軍軍医中監
1917 大正 6 12 1 海軍軍医大監
1919 大正 8 9 23 海軍軍医大佐
1922 大正11 12 1 海軍軍医少将
1923 大正12 3 12 予備役
鵠沼移住の時期は1928年までの間と思われる
1928 昭和 3     隈川 基、鵠沼7365に開業
1930 昭和 5 1 21 藤沢町会が全員一致で隈川基を町長候補に推薦
1930 昭和 5 1 26 隈川基が藤沢町長就任を承諾する
1930 昭和 5 2 13 藤沢町会、隈川町長信任を決議、助役は江口喜八に決定
1930 昭和 5 6 22 町会で火葬場の移転敷地を西富地区に決定、地元で反対運動が高まる
1930 昭和 5 9 28 火葬場建設に反対する大正村の一部住人が藤沢町役場へ乱入する
1930 昭和 5 11 15 隈川町長、火葬場建設工事に対して一週間中止の措置をとる
1930 昭和 5 11 19 隈川町長、江口助役ら辞表を提出、翌日県属重田巌、町長職務管掌として派遣される
1931 昭和 6 1 10 隈川基、町長に再選され、就任を承諾
1931 昭和 6 2 25 江口喜八助役の再任決定、この頃から町長支持派と民生倶楽部の対立が激化
1931 昭和 6 5 11 町有の元県立原蚕種試験場を東京鉄道局へ寄付し、鵠沼海岸に同局の「海の家」設置を促進
1931 昭和 6 6 1 藤沢町営火葬場が業務開始
1931 昭和 6 7 31 鉄道省「海の家」の完成披露会
1931 昭和 6 8 27 県道湘南海岸道路(片瀬-大磯間)起工式挙行
1931 昭和 6 9 23 隈川町長が辞職する
1931 昭和 6 10 3 一木與十郎、藤沢町長に当選する
1934 昭和 9 8 17 後備役
1939 昭和14 8 17 退役
1939 昭和14 11 2 隈川基、歿 (65)
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市:『藤沢市史』第6巻(1977)
  • 加藤徳右衛門:『現在の藤澤』(1933)
  • 渡部 瞭:「鵠沼人=髙瀬弥一」『鵠沼』第89号(2005)
 
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