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小田原急行鉄道江ノ島線現在の小田急電鉄㈱の前身にあたる小田原急行鉄道㈱は、1923(大正12)年5月1日の創設と、関東の私鉄としては後発の会社だが、創設直後に起こった関東大震災のため大きく出遅れざるを得なかった。会社名が示すように、東京新宿のターミナルから神奈川県央を斜めに横断して県西の城下町小田原を結ぶ路線を中心に企画された。県央部でやや先行していた神中鉄道線(現在の相模鉄道)や相模鉄道(現在のJR相模線)が横浜港復興や帝都復興のための砂利輸送を第一目的にしていたのに対し、観光地箱根を結ぶ観光路線といえよう。 1925(大正14)年秋、本線小田原線の敷設工事に着手し、新宿~小田原間82.8km(現在は82.5km)の長距離をわずか1年半で完成して、1927年4月1日に営業を開始した。 本線開通に先だって、3月9日に支線(当初は片瀬線と呼んでいた)の相模大野-藤沢間の敷設計画が決定され、続いて12月27日に片瀬線鉄道施設免許が下りた。第0264話で紹介したように、すでにこの区間には江ノ電の前身だった「東海土地電気株式会杜」名義で出願・認可された茅ヶ崎・辻堂・鵠沼線の計画があったため、小田原急行鉄道の免許には『将来、江ノ島電気鉄道株式会社茅ケ崎―江の島間鉄道建設工事実施ノ場合ハ、ソノ平面交差ヲ避ケルクメ速ヤカニコレヲ撤廃スベシ。本仮設物(片瀬江ノ島駅)ノ使用期限ハ昭和4年9月30 日迄トス』という条件がつけられていた。つまり、小田急の申請に対しては、「江ノ電」の計画が先に出ているから、それが完成するまでの約6か月(4月1日~9月30日)間の夏場だけの期限付きで認めるということだった。竜宮城を思わせる珍しいスタイルの駅舎は実は6か月だけの仮駅として誕生したのだった。しかし、江ノ電新線計画の方が駄目になってしまった〔1930(昭和5)年新線許可取消〕ので、小田急がそのまま居座るという形になったのである。(江ノ電沿線新聞平成12.3.1号) 用地買収・工事は1928(昭和3)年に入ってから行われ、1年余りという驚異的なスピードで進行した。1929(昭和4)年4月1日には、相模大野(当時は駅未設置)~片瀬江ノ島間27.3kmの江ノ島線を開業した。片瀬線が江ノ島線に変更されたのは開通直前らしいが、詳細は未調査である。 小田急江ノ島線の鵠沼地区に関わる部分は、かなり大きな特徴がある。江ノ島線の相模大野方面 - 藤沢市街地間の建設に際しては、用地買収の手間が掛からない西側を通すことになったが、藤沢駅でそのまま江ノ島へ進むと現在の江ノ島電鉄線と完全に並行することとなり、それを避けるように鉄道省から指導されていたため、当駅でスイッチバックして西側を進むルートをとったという。藤沢本町駅は旧藤澤宿の西縁部に設けられた。旧東海道と八王子(滝山)街道との分岐点に近い。藤沢神明地区の住民にとっては最寄り駅である。縣立湘南中學、町立藤澤高等女學校の通学には至便な駅となった。藤沢本町駅を出た下り電車は、すぐに旧東海道を潜り、その後は次第に高架路線となって、東海道本線を一本松踏切の真上で渡り、左にカーブしながら次第に高度を下げて藤沢駅に至る。 小田急江ノ島線藤沢駅は途中駅でありながら、スイッチバックのため、ホームと改札口の間に高度差のない、ヨーロッパのターミナル駅のような構造になっている。 藤沢駅を出た下り電車は左に大きくカーブした後、かなり長い南西に向かう直線区間を走る。線路の方向は、第0002話で紹介した鵠沼地区を二分する新田山砂丘列の100mほど西側を砂丘列と平行に走っている。この直線区間のほぼ中間点に本鵠沼駅が開設された。ここは第0275話で紹介した大東道が鵠沼本村と江ノ電鵠沼停車場を結ぶルートと交わる地点になっているが、開設当初は完全に畑の中にポツンとある駅だったらしい。本鵠沼という駅名は、第0280話で解説しておいたように、「本鵠沼」と「鵠沼本町」との二案が候補に挙がったのではあるまいか。 直線区間は、当時はまだ仮本堂だった慈教庵の脇から大きく左にカーブする。ほぼ90°カーブしきったあたりから、現マリンロードに平行するような形で南東に向かう。ほどなく鵠沼海岸駅だが、ここも開設当初は松林の中の駅だったという。間もなく丸政料理店が出店し、駅周辺が商店街の中心になってくる。 鵠沼海岸駅を出ると、左手はやや高い海岸砂丘列となり、一部それを切り取るような形で片瀬江ノ島に向かう。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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