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第0285話 政争と髙瀬弥一

町会議員髙瀬弥一と政争

 『藤沢市史』第六巻の第四章『市制施行前後の藤沢』の冒頭に、12㌻余り(614~626㌻)を割いて『藤沢町政の変動と政争』が述べられている。要約すると次のようなことらしい。
 1925(大正14)年3月の普通選挙法成立に続き、翌年1月には地方自治においても従来の納税要件と経済要件が撤廃され、25歳以上の男子で2年以上当該市町村に居住する者には選挙権・被選挙権が付与されることになった。さらに首長の権限や国の監督権が大幅に緩和されるなど、いわば大正デモクラシーの総仕上げともいうべき地方自治の改変がなされたのである。これにより有権者は一挙に4倍となり、1928(昭和3)年2月の最初の普通選挙では、当時の2大政党であった政友会と民政党をはじめとする各政党は、支持者獲得活動を活発化させた。
 この総選挙の結果は、政友=218:民政=216(他無所属=24・無産政党=8)と、両派の勢力は伯仲していた。高座郡の属する神奈川3区では2:2だったし、高座郡出身候補者だけに絞っても1:1の同数が当選した。ところが、藤沢町における得票数を見ると、民政党の岡崎久次郎の1657に対し、政友会の胎中(たいなか)楠右衛門は814と、民政党支持者は政友会支持者の倍いるという数字が示されたのである。
 この民政党の岡崎久次郎を強力に支持したのが、後に“鵠沼派”と呼ばれる町会議員髙松良夫(仲東)・加藤徳右衛門(引地)らであった。彼らはこれに勢いを得て、同年の6月に行われた神奈川県会議員選挙に元憲政会前議員の広瀬善治(民政党・小出村)を担ぎ出した。藤沢町からは無所属の葉山繁造(堀川)が立ち、藤沢町においては広瀬・葉山の得票争いが争点になると予想されていた。ところが、立候補締切直前の5月28日、金子角之助町長の推薦で政友会の上郎(こうろう)新二(川袋)が立ち、金子は町長を辞職してかなり強引な選挙運動を展開した。その一翼を担ったのが弥一で、加藤徳右衛門は「結果はどうなったかというと、高座郡選挙区定員4のところ、1位=岩本信行(政友)・2位=磯崎貞序(民政)・3位=高下才助(政友)・4位=上郎新二(政友)というもので、次点が小林輿次右衛門(民政)、広瀬=6位・葉山=7位と敗れ去ったのである。
 前回選挙までは高座郡の定員は3だったが、政友:憲政(後に統合して民政)の比率は1:2だったものが、定員4に増えて3:1という結果になったわけで、その原因は町政を抛り出してまで土壇場で上郎を担ぎ出した金子角之助にあるとする藤沢町民の批判が集中した。町長再選に金子を担ごうとする政友会議員に対し、民政党が真っ向から対立、“鵠沼派”の町会議員髙松良夫・加藤徳右衛門らが中心となって“町政刷新運動”を展開した。この時、刷新運動に対立し、金子擁護の中心になったのが誰あろう、髙瀬弥一なのである。
 ここで、時代を20年ばかり遡って藤沢町政の概略を見よう。
 1908(明治41)年4月1日、高座郡藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併、藤沢町となり、6月8日には等級選挙を実施、1・2級議員合計各12名が選出された。その14日に招集された第1回藤沢町会で町会会議細則が可決され、初代藤沢町長に鵠沼村出身の髙松良夫が選出されたのである。髙松家は仲東にある鵠沼きっての旧家で、平安時代末に土着した法印と称する修験者の末裔と伝えられる。
 1912(明治45)年6月19日、第2代藤沢町長として金子角之助が選出され、上述の上郎候補担ぎ出しで辞任するまで、4期16年間の長期政権の座に着いた。つまり、大正時代はそっくり金子町政時代だったのだ。この間、1921(大正10)年には全国町村会を結成し初代会長に就任して、軍事費を削り取ってまでの義務教育費国庫負担増額期成同盟を作ってその目的を果たした。
 金子家は旧大庭村の名主を務めた家柄で、先代の金子小左衛門は、神奈川県自由党壮士として、板垣退助等の講演を積極的に推進した人物である。角之助は、1866(慶応2)年12月25日、高座郡綾瀬本蓼川の農民=武藤卯左衛門の三男に生まれた。羽鳥村に小笠原東陽が開いた耕余塾に学んだ後、14歳の時小学校の教師となり、18歳で南多摩郡の小学校長代理になる。その後教職を辞任して東京に出、自由党の文武館として建設された有一館(ゆういつかん) に寄宿し、自由民権運動の活動家として甲申事変の後に外患罪で逮捕されたりもした。その活動が金子小左衛門に見込まれ、金子家の養子になったのである。
 川袋の髙瀬家と上郎家は隣同士だった。これは決してたまたまそうだったというわけではなさそうである。上郎というかなり珍しい姓を神奈川県近現代史の中から探ってみると、次のようなことが判る。
 明治26年の記録に上郎幸八・吉田 茂の共同名義で(大磯町)切通418番地木造板葺2階家41.5坪外2棟、同29年の記録に吉田 茂が切通424番地の今村角太郎名義の木造板葺2階家1棟26.5坪を買取ったことが記されている。すなわち“大磯の吉田御殿”の元である。もちろんここに出てくる吉田 茂とは、戦後長期政権を誇る“ワンマン宰相”のことだ。茂は旧土佐藩士で自由民権運動の闘士=竹内 綱の五男として明治11年に生まれたが、幼少時を横浜で過ごした(太田小学校で学んだとあるから、髙瀬弥一の9期先輩にあたる)。明治20年に9歳で横浜の貿易商=吉田健三の養子となり、以来、別邸のある西小磯で育った。
 まだしっかり調べがついていないけれど、上郎家は大磯町西部の西小磯における有力者だったようだ。
 続いて、上郎清助という人物が政友会から神奈川県会議員選挙の横浜選挙区で立候補し、1911(明治44)年・1915(大正4)年・1919(大正8)年の3期連続で当選している。すなわち、上郎清助が県会議員だった期間と、金子角之助が藤沢町長だった期間とはほとんど重なる。同じ政友会系の地方政治家である。当然出会いの機会も多かったと思われる。
 上郎清助は、横浜信託会社社長で、貴族院多額納税議員だったこともある。現在の横浜市営地下鉄《伊勢佐木長者町駅》付近一帯は、震災前はほとんどが上郎の地所だったという。現在も長者町に《上郎ビル》が存在する。
 そして、この上郎清助の弟が上郎新二なのである。
 上郎新二に関する調査が極めて不充分なので断定的なことはいえないが、髙瀬弥一と上郎新二の出会いは相当古いのではなかろうか。それは神中あるいは太田小学校あたりまで遡ることさえ充分考えられる。この両家の境遇を比べてみると、驚くほど一致点が多い。先祖は片や鎌倉、片や大磯の街外れの旧家であった。明治期に開港地ヨコハマに出て巨万の富を得た。また、この二人はお互いに極めて広い趣味を持っている。《趣味人》とでもいうべき人柄である。まさに肝胆相照らす親友だったとしても不思議はない。
 弥一は中藤ヶ谷から川袋に移った際、隣接地を新二のために用意して呼び入れたのではないかと筆者は睨んでいる。
 従って、藤沢町政の変動と政争における弥一の態度は、金子支持というよりも上郎新二支持の立場から生まれたものと考えられる。
 上郎新二の当選直後、髙瀬家では三女=八重子が誕生した。
 金子町長再選問題は、長期間にわたる政争をもたらし、以後の藤沢町政を不安定なものとした。すったもんだの経緯をここで説明するゆとりはないので『藤沢市史』第六巻の614~626㌻に譲るとして、昭和になってからの藤沢町長は、湯原直平(地方官僚 1929.1~)、隈川 基(海軍予備役軍医少将 1930.3~)、一木與十郎(陸軍予備役少将 1931.10~)、大野守衛(外交官 1934.5~)と、短命(大野は町長・市長を継続して8年務めたが)で、かつての地元旧家出身の政治家でなく、鵠沼・辻堂の新興住宅地に移り住んだ官僚・軍人・外交官が、政争に関係なく無難だとして妥協案で担ぎ出された形であることを指摘しておく。これは、この政争が如何に厳しいものであったかを物語っている。
 髙瀬弥一は、この政争に嫌気がさしたのか、2期で町会議員を終わらせている。上郎新二もまた、県会議員は1期のみであった。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
 
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