西暦 |
和暦 |
月 |
日 |
記 事 |
1870 |
明治 3 |
9 |
12 |
菊本直次郎、藤堂家旧臣菊本保有の次男として三重県伊賀国阿拝郡上野萬町に生まれる |
1892 |
明治25 |
12 |
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慶応義塾大学(当時専門学校)理財科第1期生として卒業 |
1893 |
明治26 |
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三井銀行に入行。大阪支店貸付係長、和歌山、神戸、函館各支店長を歴任 |
1904 |
明治37 |
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本店調査役、深川支店長となる |
1910 |
明治43 |
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大阪支店長 |
1912 |
大正元 |
11 |
28 |
菊本直次郎、伊藤幹一から鵠沼字下藤iヶ谷7393番地の2,430坪を2,273円で購入 |
1913 |
大正 2 |
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道家所有地を約1,370坪入手 |
1914 |
大正 3 |
10 |
24 |
本店営業部長に就任→別荘建築に取り掛かったか? 観松楼と命名 |
1918 |
大正 7 |
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22 |
直次郎、常務取締役報酬月額700円。本館、新館ともに完成していたか |
1923 |
大正12 |
9 |
1 |
関東大震災、本館、新館ともに倒壊する。復旧は直ちに着手された模様→「三宜荘」と命名 |
1924 |
大正13 |
3 |
28 |
直次郎、欧米印度南洋方面視察に出発 |
1924 |
大正13 |
春 |
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直次郎は渡欧の途中に上海に立ち寄り、王 一亭に呉 昌碩の書画を注文 |
1925 |
大正14 |
1 |
30 |
帰途に再び上海に立ち寄り、呉 藏龕と交流。呉 藏龕はその時の記念にと籬に菊の画幅を描く |
1925 |
大正14 |
2 |
10 |
帰国 |
1925 |
大正14 |
2 |
26 |
呉 昌碩、上海にて「三宜荘」の扁額の揮毫 |
1925 |
大正14 |
春 |
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王 一亭、菊本家を訪れ、呉 昌碩の扁額を持参すると共に菊本の求めに応じて「三宜庄」を書く |
1932 |
昭和 7 |
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~1943、「菊本家鵠沼御別邸内各建物平面図」を作成 |
1944 |
昭和19 |
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直次郎・ひさ夫妻、郷里、伊賀上野へ戦時疎開 |
1945 |
昭和20 |
5 |
25 |
東京大空襲で南青山の本宅が罹災→三男健三が鵠沼に移り住む。以後、定住 |
1946 |
昭和21 |
8 |
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進駐軍により本館接収→長男一家は鵠沼中岡に、次男一家は伊賀上野に、三男は別館に移る |
1947 |
昭和22 |
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長女喜美の家族が新館に移住 |
1952 |
昭和27 |
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敷地の南西部約600坪を売却 |
1953 |
昭和28 |
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接収解除、本館返還される |
1954 |
昭和29 |
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敷地の北側約1,650坪を本館建物とも東急電鉄および五島慶太に売却 |
1957 |
昭和32 |
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直次郎、伊賀上野にて死去 |
1959 |
昭和34 |
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妻ひさ、三男健三の家族が鵠沼に移り住む |
1974 |
昭和49 |
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ひさ、鵠沼にて死去 |
1978 |
昭和53 |
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敷地の東側約900坪を森ビル開発株式会社に売却 |