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第0254話 観松楼→三宜荘

菊本別荘(観松楼のちに三宜荘)

 第0248話で紹介した海岸通りのほぼ中間点付近の《藤ヶ谷橋》の東側にあった(小規模になったが現存する)のが菊本別荘である。正確な地番は神奈川縣高座郡藤澤町鵠沼字下藤iヶ谷7393番地の9,15,16,35,36,61、現在の住居表示では藤沢市鵠沼松が岡1丁目10番、11番の区域である。
 三井銀行の重役であり、郷里の俳人松尾芭蕉の研究家としても知られる菊本直次郎氏が大正初期に構えた別荘だが、この別荘については、《鵠沼を語る会》の有田裕一・岡田哲明両氏が詳細に調査され、「菊本別荘(観松楼のちに三宜荘)」として『鵠沼』第87号に報告されているので、詳細はそちらを参照されたい。同号にはこの別荘にお住まいの新田貴代・菊本昭一両氏が思い出を記されている。また、菊本昭一氏には《鵠沼を語る会》の例会で講話をお願いした。
 この別荘のことを話題に採り上げたのは、《鵠沼海岸別荘地》における富豪の別荘が歩んだ足取りの一典型が見られるからである。その流れを上記報告から年表にして下に掲げた。
 ところで菊本別荘は大正初期に菊本直次郎が別荘を構えたときには「観松楼」と名付けられたが、関東大震災で被災し、再建されたときに「三宜荘」と改名したようである。この命名は、当時ここから富士山と江の島と龍口寺が一望できたことに由来しているという。
 現在、菊本家には呉 昌碩筆の「三宜荘」の扁額が残されている。呉 昌碩(1844-1927)といえば、近代中国を代表する書画家として高名な人物である。そのような人物が、なぜ日本の別荘名の扁額を書いたのかについては、新田貴代氏が「菊本別荘のこと」に記された。このことが《鵠沼を語る会》のホームページで紹介されると、これを見た呉 昌碩の研究家でもある柏崎市在住の書家、角田勝久氏がわざわざ鵠沼に来訪され、有田裕一・岡田哲明両氏と共に菊本家を訪問された。呉 昌碩は来日の記録がないのに、なぜこの扁額があるのか疑問に思われたからである。
 この段階まで、新田貴代氏は呉 昌碩が来日して書いたものと思われていたのだが、これは思い違いで、その後の新田氏の調査で以下のような事情だということが判明し、2006年の『鵠沼』第93号に訂正文を寄せられた。その概要をかいつまんで記しておこう。
 1924(大正13)年春から、菊本直次郎は1年近くをかけて欧米印度南洋方面を視察した。その途中で上海に立ち寄り、中国商業儲蓄銀行董事で呉 昌碩の弟子でもある書画家王 一亭(1867-1938)に面会したときに呉 昌碩の書画を注文した。視察旅行の帰途、再び上海に立ち寄り、呉 昌碩の次男である書画家呉 藏龕(1873-1927)と交流した。直次郎の帰国後、呉 昌碩は上海にて「三宜荘」の扁額の揮毫をし、直後に来日した王 一亭が、扁額を持参して菊本家を訪れたという次第が判明した。

菊本別荘関係年表
西暦 和暦 記                        事
1870 明治 3 9 12 菊本直次郎、藤堂家旧臣菊本保有の次男として三重県伊賀国阿拝郡上野萬町に生まれる
1892 明治25 12   慶応義塾大学(当時専門学校)理財科第1期生として卒業
1893 明治26     三井銀行に入行。大阪支店貸付係長、和歌山、神戸、函館各支店長を歴任
1904 明治37     本店調査役、深川支店長となる
1910 明治43     大阪支店長
1912 大正元 11 28 菊本直次郎、伊藤幹一から鵠沼字下藤iヶ谷7393番地の2,430坪を2,273円で購入
1913 大正 2     道家所有地を約1,370坪入手
1914 大正 3 10 24 本店営業部長に就任→別荘建築に取り掛かったか? 観松楼と命名
1918 大正 7   22 直次郎、常務取締役報酬月額700円。本館、新館ともに完成していたか
1923 大正12 9 1 関東大震災、本館、新館ともに倒壊する。復旧は直ちに着手された模様→「三宜荘」と命名
1924 大正13 3 28 直次郎、欧米印度南洋方面視察に出発
1924 大正13   直次郎は渡欧の途中に上海に立ち寄り、王 一亭に呉 昌碩の書画を注文
1925 大正14 1 30 帰途に再び上海に立ち寄り、呉 藏龕と交流。呉 藏龕はその時の記念にと籬に菊の画幅を描く
1925 大正14 2 10 帰国
1925 大正14 2 26 呉 昌碩、上海にて「三宜荘」の扁額の揮毫
1925 大正14   王 一亭、菊本家を訪れ、呉 昌碩の扁額を持参すると共に菊本の求めに応じて「三宜庄」を書く
1932 昭和 7     ~1943、「菊本家鵠沼御別邸内各建物平面図」を作成
1944 昭和19 直次郎・ひさ夫妻、郷里、伊賀上野へ戦時疎開
1945 昭和20 5 25 東京大空襲で南青山の本宅が罹災→三男健三が鵠沼に移り住む。以後、定住
1946 昭和21 8   進駐軍により本館接収→長男一家は鵠沼中岡に、次男一家は伊賀上野に、三男は別館に移る
1947 昭和22     長女喜美の家族が新館に移住
1952 昭和27     敷地の南西部約600坪を売却
1953 昭和28     接収解除、本館返還される
1954 昭和29     敷地の北側約1,650坪を本館建物とも東急電鉄および五島慶太に売却
1957 昭和32     直次郎、伊賀上野にて死去
1959 昭和34     妻ひさ、三男健三の家族が鵠沼に移り住む
1974 昭和49     ひさ、鵠沼にて死去
1978 昭和53     敷地の東側約900坪を森ビル開発株式会社に売却
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 有田裕一/岡田哲明:菊本別荘(観松楼のちに三宜荘)『鵠沼』第87号(2003)
  • 新田貴代:菊本別荘のこと『鵠沼』第87号(2003)
  • 菊本昭一:別荘時代の思い出『鵠沼』第87号(2003)
  • 新田貴代:菊本別荘のこと(鵠沼第87号追記)『鵠沼』第93号(2006)
 
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