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日本初の組立家屋(プレハブ)=内藤邸現在《マリンロード》と名付けられた鵠沼海岸駅前の商店街を東へまっすぐ進み、突き当たったところ(鵠沼字下岡6672番地)を先に明治後期に2000坪ほどを入手していた日本橋茅場町で呉服店を営む伊藤 清から、その半分の1000坪ほどを大正中期に購入したのが、東京松屋呉服店(現銀座松屋デパート)の支配人をしていた内藤彦一だった。周囲には北隣の伊藤邸、東隣の下岡6672番地の後藤たま(《帝國興信所→帝国データバンク》創業者夫人)邸があり、その南端と下岡6642番地三輪善兵衛(化粧品・装身具の問屋《丸見屋→ミツワ石鹸》創業者)邸のほぼ中央に大きな池があったものの、クロマツの植樹もままならなかったようである。 内藤彦一は避暑をかねて伊藤氏の別荘を訪れ、波打ち際まで砂山以外何もない聞きしに勝る現地を状況を見てまわり、境界のぼさ柵造りや周囲へのクロマツの植樹などを命じ、いろいろ思案をしていた。東隣の後藤、北側の伊藤両氏からは富士山の眺望を妨げる工作物の構築、高い樹木の植樹を禁止する申出を受けていたからでる。 この頃内藤は東京商工会議所の議員をしていて、後に会頭となる藤山雷太氏や勧業銀行総裁を務めることになる志村源太郎氏らとともに財界活動をしていた。当時、東京商工会議所は活動目標の一つに生活改善運動を掲げ、生活の簡素化、住宅難問題などに取り組んでいた。 そうした中で内藤が住宅難問題解決の一策として注目したのが、米国の組立家屋(ブレハブ住宅)の輸入、活用だった。その住宅を鵠沼の地で実験的に導入してみようと腹を決めたらしい。こうして米国シアトルにあった住宅会社アメリカン・ポータプル・ハウス社(American Portable Houses Co.)のパネル工法の組立家屋(プレハブ住宅)の5室のものが選ばれて発注され、鵠沼の地に送ってこられることになった。 注文状を送ってから2か月後の1920(大正9)年4月、日本では初めてのものとなる組立家屋が、横浜港に到着した。ところが横浜税関でも初めての物だけに「完成品か材料か」の判断など通関業務は混乱し、長期間留め置かれるうちに荷が傷み、結局は割高な買い物になる。 建築を請け負った業者にしても、なにしろ日本で初めての工事であるから、かなり手こずったらしい。 しかし、組立家屋だけに工期は短くて済み、1920(大正9)年7月には完工した。翌年10月には日本建築学会発行の専門誌『建築卜社會』10月号に内藤邸組立家屋発注から住宅完成までの経緯を記載し、また、『主婦の友』誌の10月号には内藤邸組立家屋を挿絵入りで掲載している。 1923(大正12)年9月1日の大正関東地震では、鵠沼のほとんどの家屋が倒壊したのに、組立家屋の内藤邸は基礎部分と20cm程度ずれが生じたものの無事で、90年を経た現在も存在する。 どのような家屋であるかは、この家で生まれ育った内藤喜嗣氏(「鵠沼を語る会」前会長、「鵠沼郷土資料展示室」運営委員会副委員長)が、下記[参考文献]に詳述されている。 | ||||||
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