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このような地域住民によるコミュニティーの自治組織はどのように形成されていったのだろうか。 町内会「本村」の皇大神宮氏子集落では、大庭御厨以来の伝統的な村落共同体が形成され、各種の「講」が組織されていた。明治中期から皇大神宮の例祭に、各集落が競って人形山車を建造するようになり、その維持管理のためにもより強固な村落共同体の結束が見られたであろう。各集落には山車小屋が置かれ、集落によっては村落稲荷の脇に集会所が設けられたりした。鵠沼海岸の場合、大正時代に入ると、町内会といったコミュニティーの自治組織が生まれ、1920(大正9)年には「倶楽部」と名付けた町内会館も建てられる。別荘地にはまだ定住者は少なかったから、町内会は主に商店主たちによって運営されていたに違いない。 消防組1908(明治41)年4月1日、藤澤町成立と同時に《消防組》が組織された。《消防組》には《公設消防組》と《私設消防組》があった。 《私設消防組》とは、「本村」の旧集落が組織したもので、加藤徳右衛門:『現在の藤澤』(1933)によれば1933年段階で藤澤町全体では22組が組織されていた。鵠沼地区のものを抜粋しよう。
この《警防団》が戦後になって1948(昭和23)年に《消防団》に改称されて今日に至るのである。 自警団《防護団》ともいい、いわば市民警察である。これがいつ頃から組織されたのかは明確ではないが、鵠沼海岸の場合、大正時代には鵠沼郵便局2代目局長=廣岡助五郎が自警団顧問を務めた記録がある。一説では、人力車夫が自警団員を引き受けたともいわれる。関東大震災の際には、鵠沼海岸の自警団が大活躍をした記録がある。これについては別項を立てる。 上記のように、1939(昭和14)年4月1日、《消防組》と統合して《警防団》が組織される。 青年団『藤沢市史』第三巻には1920(大正9)年4月18日に制定された《鵠沼青年団》の団則が掲載されている。「目的」には「本団ハ教育ニ関スル勅語、戊申詔書ノ聖旨ヲ奉戴シ団員相互ノ体育ヲ向上シ智識ヲ錬磨シ精神ノ修養ニ努メ倂セテ実業上ノ技能ヲ習得シ進ンデ公共ノ事ニ力ヲ致シ忠良ナル国家的青年タルノ修養ヲナスヲ以テ目的トス」とある。 また、事務所が尋常高等鵠沼小學校に置かれていたこと、支部が組織されていたことが判る。この支部というのは、各町内会に属しており、実際の活動は支部ごとに行われていたであろう。 主な活動は勤労奉仕だったであろう。「本村」の各支部では、皇大神宮例祭に活躍したであろうし、鵠沼海岸の支部では夏場の海水浴場の警備・監視に重要な役割を担った。 鎌倉町の青年団の場合、名所旧跡の開設を刻んだ石碑が現在も各所に残っているが、鵠沼青年団の場合、そのような「物的証拠」は見当たらない。 | ||||||
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