HOME 政治・軍事 経済・産業 自然・災害 文化・芸術 教育・宗教 社会・開発


第0204話 老舗有田商店

 有田商店は鵠沼海岸商店街きっての老舗である。鵠沼を巡る話題としては、避けては通れないのだが、何とも書きにくい。というのは、現当主=有田裕一氏は「鵠沼を語る会」最古参会員だし、この5月から再度会長に就任された。
 そこで、故高木和男氏が『鵠沼』第9号に記された文を引用して紹介に換えたい。

生蕎麦《明月庵》

 「今の有田商店のところは、大正八年の頃は芦が生えていたところで、今の八百利のところに有田商店が明月庵とか言ってそば屋をやっていた。
 有田は藤沢大鋸の出身と聞いたが、当時からの鵠沼コンツェルンで土地のブローカーを今の当主の曾祖父がやっており、しかも仕事師もやっておった。祖父の人が身体が丈夫でなかったので、曾祖父の跡をついで、土地ブローカーをやり同時にそば屋をやっていたが、弟が仕事師をやっていた。今のタバコ屋のお婆さんはその仕事師の妻君であるが不幸にも主人は若い頃に亡くなられた。
 このそば屋の明月庵は、大正九年には道路向こうの芦原を開いて店を作って、そば屋をやめ肉屋をはじめた。同時に洋食の職人を入れて、洋食の食堂を作り、出前もやった。岸田劉生の鵠沼日記に出てくる洋食屋であって、私も食べたが味はよかった。缶詰などを始めたのは当主の父親の代からである。
 明月庵の跡は今の八百利になって、今の当主の祖父が始めた。今の郵便局の処は空地だったと思う。」

※最後の行の「今の八百利」は1Fにサーフショップ「SURF & SUNS」が入っている「八百利ビル」の位置である。
また、「今の郵便局の処」というのは、『鵠沼』第9号が刊行された1980年当時の鵠沼海岸2-7-3である。

清酒食料品牛豚鶏肉西洋料理+青果+煙草《有田》

 明月庵の向かいの現在地に移った《有田》は、下の右写真の看板に見られるように、「清酒食料品牛豚鶏肉西洋料理」と多角的な商店を構えるが、右側に別棟で煙草店を開き、さらに向かいの《明月庵》跡には青果店《有田》を、恐らく大震災までは開いていた。岸田劉生の日記にはしばしば《有田》が登場するが、カレーライスやコールドビーフを食べたのは、現在の《有田商店》であり、画材の野菜や果物を購入したのは青果店の方である。
 店構えは格別大きなものではないが、敷地はかなり広く、邸内には土蔵や屋敷稲荷が鎮座する。さすがに90年の歴史を誇る老舗である。
岸田劉生『鵠沼日記』に出てくる有田
西暦 和暦 記                                事
1920 大正 9 7 16 夕食には今度鵠沼に出来た洋食屋からコールドビーフをとつてみる。わりにうまかつた。
1920 大正 9 7 19 夕食は鵠沼の洋食屋から。取つたものでおいしかつた。
1920 大正 9 8 9 夕食の為めにライスカレーあつらへたのが来ないので腹を立てる。
        今夜はそばやの近所に舞台が出来て例年の通り芝居などある由。
1920 大正 9 9 18 夜食はトーストと有田からとつた洋食一皿でうまかつた。
1921 大正10 4 17 今日は師匠は休みの由。武相(藤沢の見番?)から有田へ電話かけて来た。
1921 大正10 4 24 今夜は丸山も一緒に夕飯を食べやうと思ふ。フライなど有田からとる。
1921 大正10 6 5 例により有田の洋食でビールをのみ大分よつていヽ気持の処へ(以下略)
1921 大正10 8 8 有田の八百屋の御用きヽが見てゐたが丸山なら弱いと思つたらしく、丸山に角力を挑んだ(略)
1922 大正11 7 25 有田へよつてアイスクリームのみ、有田の八百屋にて小さい青いリンゴがあつたので(略)
1922 大正11 8 7 (賀来神社の御祭に行った帰りに)有田でキヤラメルをとつて帰る。
1922 大正11 8 12 話してゐたら有田からおばあさんがつかひで走つてきて、信行の様子がわるいからと云ふ。
1922 大正11 10 6 夜食は有田に特別で一人前一円にて二皿の洋食をとり、其他家の御料理にて酒をのむ。
1923 大正12 2 21 原田の御みやげに東屋、有田等からご馳走をとつて、皆で御酒になる。
1923 大正12 3 22 おひるは有田のライスカレーおさしみ。
1923 大正12 5 18 朝食後、果物籠か野菜図でもかヽうと材料をとヽのへに有田の八百屋へ行く。
1923 大正12 6 8 有田へ行き空豆ときうりをとり笠を借りて帰宅。
1923 大正12 8 1 朝食後静物の材料をと思ひ有田へ行きすいみつ一箱薑(はじかみ)、冬(とう)瓜(がん)など
1923 大正12  8 2 (海に行った)帰りに有田により、コールドチキンやミルクセーキなどたべる。
1923 大正12 8 11 有田へ行き果物や何かとる。有田の体量器で、目方をはかつたら十八貫五百強あつた。
1923 大正12 9 6 有田の方へ買い物に出る。有田では怪我した人はあつたが皆助かつた由、よかつたと思ふ。
         洋食店の方はつぶれてゐたが八百屋の方は先づ助かつてゐて商買してゐた。

清酒食料品精肉《距L田商店》

 これが現在のような営業形態になったのは、1928(昭和3)年になってからで、大震災の復興が一段落し、小田急線の開通を翌年に控えた段階である。すなわち西洋料理部門が消えたわけだが、向かいの青果店《有田》も恐らく居抜きの形で創業者夫人の妹の嫁ぎ先矢折氏に譲られて、洒落のような屋号の《八百利》となった。その左側(ここはまだ有田氏の土地)を借りて引地の《小林理髪店》が進出するのは、1926(大正15)年のことである。ちょうどその頃、その奥の東屋貸別荘「イの4号」に住むことになった芥川龍之介も、早速此の理髪店の客になったのであろう。芥川晩年の作品『歯車』の冒頭に出てくる「或理髪店の主人」のモデルとされるわけである。後に居抜きで《理容やながわ》となった。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 高木和男:「大震災前後からの鵠沼海岸(二)」『鵠沼』第9号(1980)
  • 「特集 鵠沼海岸商店街100年の歴史」『鵠沼』第81号(2000)
 
BACK TOP NEXT