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第0161話 サツマイモ

鵠沼名物に

  鵠沼は全体に湘南砂丘地帯と呼ばれる海岸平野(浅い海底が陸化した平野)なので、砂地で養分が少なく、保水力が乏しい。このため、栽培可能な農作物は限られる。また、飛砂や塩害との闘いも加わる。
 大都会江戸の外縁部に当たる川崎(当時は橘樹(たちばな)郡)は早くから商業的な農業(近郊農業)が発達していた。また、幕末、横浜の開港を機に外国人(欧米人、中国人)の居留により、それまでにない食文化が持ち込まれ、畜産、酪農といった新しい農牧業が横浜市南部(当時は久良岐(くらき)郡)に見られるようになる。明治に入ると、主要輸出品であった生糸生産のために、相模野台地を中心に一大養蚕地帯が形成されていった。
 鵠沼の農業が自給的なものから商業的な農業に発展するのは、明治初期以来である。宮ノ前の小林榮藏(藷榮)が、川崎の六郷方面からサツマイモ相州白(そうしゆうしろ)の苗を持ってきて、地味にあったのか鵠沼の名物になっていった。鉄道が開通し、大阪と結ばれるようになると、関西までを商圏とするようになったという。食用のサツマイモのみならず、大正中期には大庭(現藤沢市城南)に大日本醸造鰍フ酒造工場が開業し、醸造原料として利用される一方、農家の中には小規模な澱粉工場を開設する例も見られた。

サツマイモが鵠沼に来るまで

 サツマイモとは
(薩摩芋、または甘藷:かんしょ、学名: Ipomoea batatas L.)、
中国で蕃薯、琉球で唐芋、鹿児島で琉球薯、全国的には薩摩芋と呼ばれる。
ヒルガオ科サツマイモ属
原産地:メソアメリカ(メキシコ南部〜ペルー)1300B.C.頃〜
1000B.C.頃 メキシコ南部→ハワイ経由 カモテ(ハワイ語)・ルート
        ペルー→マルケサス経由  クマラ(マオリ語)・ルート
10世紀頃  マルケサス→ニュージーランド
1492年   コロンブスによりスペイン経由でヨーロッパ南部へ
16世紀頃  ポルトガル人によって東南アジアへ
1593年 陳振流によりルソン→明(中国)南東部へ
1604年 野国総官により明(中国)
1615年 三浦按針が平戸へ
1698年 尚貞王により種子島へ 種子島久基の命で種子島で栽培
1705年 前田利右衛門(甘藷翁)により琉球→薩摩国(鹿児島県)山川へ
1711年 下見吉十郎(芋地蔵)により薩摩→伊豫大三島へ
1716年 島利兵衛(芋宗匠)により硫黄島→山城(京都府)
1720年 陶山純翁により薩摩→対馬へ。さらに朝鮮へ
1732年 井戸平左衛門(芋代官)により薩摩→出雲へ
1834年 銭屋五平衛により薩摩→加賀金沢へ
1734年 青木昆陽(甘藷先生)により薩摩(※長崎説あり)→江戸小石川薬園へ
1734年 平塚でサツマイモ試作(湘南初)
1735年 小石川薬園→下総馬加村(千葉市幕張)および上総不動堂へ
1751年 吉田弥右衛門により上総→入間郡(所沢市)へ→川越藷
1801年頃 早川正紀(芋代官)、埼玉県南部のサツマイモ栽培を奨励
1811年 川村幸八(甘藷翁)により下総→仙台へ
明治初期 小林栄蔵(宮ノ前)により川崎の六郷方面→鵠沼へ相州白導入
 明治時代の鵠沼村における藷問屋 宮ノ前 小林[藷榮]/苅田 浅場[藷敬]/苅田 関根[藷國]/原 渡邊[藷長]
1906年 埼玉県針ヶ谷の山田いちが「紅赤」を開発→関東一円に普及
1906年 鵠沼地区の甘藷収穫高=90万貫、繭生産高=1,528石、牛=12頭、馬=20頭、豚=52頭、家禽=2,400羽
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
 
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