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第0140話 長谷川ゑいと東屋

東屋初代女将

 第0132話に記したように、伊東將行は1892(明治25)年にそれまで勤めていた「鵠沼館」に加えて一旅館「東家」を創業した。この段階では旅館というよりも貸別荘だったという。
 1897(明治30)年頃、將行は神楽坂箪笥町の名料亭=《吉熊》の女中頭をしていた長谷川 榮(ゑい)という女性をスカウトしてきて旅館東屋の女将に据える。
 《吉熊》には多くの文士、特に尾崎紅葉率いる「硯友社」の面々や近くにあった物理学校(現東京理科大)の教授や学生がよく用いたらしい。そこで立ち働く女中頭のゑいは、才色兼備でなかなかの人気者だったという。
 ここでゑいの実家=長谷川家について触れておこう。両親の元金沢藩士といわれる長谷川重守・きよ夫妻は、明治時代には東京・牛込に住んでいた。夫妻には男1人、女6人、計7人の子があったが、長女は夭折した。弟妹の面倒を見る実質上長女の役割を果たした二女=たか(1866-1938)は、極めてしっかりものであったという数々のエピソードが残っている。 たかは東京の芝で糸組み物を商っていた杉村清吉(1855-1916)と結婚し、間に一人息子の龍三が誕生するのは、妹のゑいが鵠沼に移った1897(明治30)の7月9日のことであった。この龍三が日本画家の長谷川路可となるのである。路可については別項を立てる。龍三が小学校3年生のとき両親は離婚し、龍三は母=たかが引き取ることになったため、長谷川姓を名乗り、長谷川龍三となった。これと相前後して長谷川家は東京を引き払い、たかと共に東屋の周辺に移り住んだ模様で、本籍を鵠沼村に移されている。
 三女が東屋初代女将の長谷川ゑいである。ゑいの次に生まれたのが長谷川家唯一の男性である嫡男=繁蔵である。繁蔵とその妻=タケとの間に、一人息子の欽一が生まれたが、幼少時に父=繁蔵が他界し、母もその前後に長谷川家を去っている。欽一は直ちに家督を相続し、後見人には伊東將行が就いたが、働き者と伝えられている祖母=きよも健在で、長谷川家が結束して欽一を育てることになった。
 その頃、伊東將行が招聘した埼玉県吹上出身の医師=福田良平を院長に《鵠沼海濱病院》が東屋に隣接して開設される。後に福田良平は長谷川家の四女=蝶と結婚した。二人の間には子が生まれなかったので、姪の光代を養子にする。
 蝶の下には、そのと寿々という二人の妹があった。寿々は後藤 栄という後に長谷川欽一の後見人となる人物と結婚する。

「文士宿」東屋の出発

 第0132話に記したように、東屋は廃業の際に宿帳を初めあらゆる資料や什器備品類は処分されたため、どういう文士がいつからいつまで滞在したのか、明確な記録がない。これまで判明した文士の記録は、小山文雄氏の永年にわたる調査に負うところが多い。膨大な各種文学作品の中から、あるいは文士たちが交わした書簡の中から東屋に関するものを抜き出し、整理したものである。従って、実際にはその数倍の文士が宿泊したと思われる。残念ながら不明な部分が多いのである。
 それによれば、東屋に滞在したことが最初に判る文士は小説家=広津柳浪(1861-1928)で、1897(明治30)年秋に東屋に滞在し、小説『くされ縁』を執筆している。
 広津柳浪は「硯友社」の有力なメンバーだったので、当時片瀬に居を構えていた「硯友社」の江見水蔭宅に立ち寄り、水蔭・川上眉山と親交を結んだ。この時仲間にゑいが鵠沼にいることを伝えたのではあるまいか。後に1908(明治41)年5月23日、文学結社=硯友社一行(思案、眉山、桂舟、龜石、小波、程山、風谷、柳浪といふ顔觸)は、東屋へ「旅行会」を行っている。
 いずれにせよ、ゑいが女将に就任したことによって「文士宿」東屋が発展したことは間違いない。
 「文士宿」東屋の発展については、文化史のジャンルで別項を立てる。.

 ところで、全くの余談だが、先年「明治郷土史料室」のオープンに際し、「耕余塾」の資料を見せて頂いた際に、歴代塾生名簿の中に「鵠沼・長谷川栄」とあるのを見つけた。男性か女性かは判らないが、あるいは……。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 『東屋記念碑』設置記念特集号:『鵠沼』第82号(2001)
  • 高三啓輔:『鵠沼・東屋旅館物語』
 
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