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武相倶樂部とは江ノ電鵠沼駅前の賀来神社境内に建つ「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」には「二十年今福元穎三觜八郎右衛門金子小左衛門田中平八齋藤六左衛門等相謀建設武相倶樂部將行亦爲部員專講游客招致之策而共未到擧其績」すなわち「二十年今福元頴・三觜八郎右衛門・金子小左衛門・田中平八・斉藤六左衛門等相謀り、武相倶楽部を建設せり、将行また部員となり、専ら遊客招致の策を講じて、共に未だ其の績を挙ぐるに到らず」とある。 1887(明治20)年、「武相倶樂部」が組織され、鵠沼海岸開発をしようとしたが、実績は上がらなかったらしい。組織の経緯やいつ解散したかは不明だが、1884(明治17)年の郡区町村編成法の改訂から1889(明治22)年に市制町村制が施行されるまでの間は、第0100話で見たように、鵠沼村は羽鳥、大庭、稲荷、辻堂と連合し、官選となった戸長には羽鳥村の三觜小三郎が就任していた。そういうわけで、鵠沼海岸開発は鵠沼村独自で行われたのではなく、連合村、高座郡、そして在京の投資家が組織し、鵠沼村代表としては神奈川連合会(議会)および高座郡各町村連合会の鵠沼村議員=齋藤六左衛門が加わっていた。 「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」には「今福元頴・三觜八郎右衛門・金子小左衛門・田中平八・斉藤六左衛門等相謀り」とあるが、「等」については不明である。碑文にある人物を列挙すると次の通りである。
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