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第0122話 武相倶樂部

武相倶樂部とは

 江ノ電鵠沼駅前の賀来神社境内に建つ「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」には
 「二十年今福元穎三觜八郎右衛門金子小左衛門田中平八齋藤六左衛門等相謀建設武相倶樂部將行亦爲部員專講游客招致之策而共未到擧其績」すなわち「二十年今福元頴・三觜八郎右衛門・金子小左衛門・田中平八・斉藤六左衛門等相謀り、武相倶楽部を建設せり、将行また部員となり、専ら遊客招致の策を講じて、共に未だ其の績を挙ぐるに到らず」とある。
 1887(明治20)年、「武相倶樂部」が組織され、鵠沼海岸開発をしようとしたが、実績は上がらなかったらしい。組織の経緯やいつ解散したかは不明だが、1884(明治17)年の郡区町村編成法の改訂から1889(明治22)年に市制町村制が施行されるまでの間は、第0100話で見たように、鵠沼村は羽鳥、大庭、稲荷、辻堂と連合し、官選となった戸長には羽鳥村の三觜小三郎が就任していた。そういうわけで、鵠沼海岸開発は鵠沼村独自で行われたのではなく、連合村、高座郡、そして在京の投資家が組織し、鵠沼村代表としては神奈川連合会(議会)および高座郡各町村連合会の鵠沼村議員=齋藤六左衛門が加わっていた。
 「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」には「今福元頴・三觜八郎右衛門・金子小左衛門・田中平八・斉藤六左衛門等相謀り」とあるが、「等」については不明である。碑文にある人物を列挙すると次の通りである。
  • 今福元穎(いまふく もとひで 1843-1924):自由民権運動家。第2代高座郡長、神奈川県会議員、国会開設運動に熱心に取り組んだ。引退した後は鉄鈴(てつれい)と号し、書画を好んで描いたという。中新田村(海老名市)在住
  • 三觜八郎右衛門(みつはし はちろうえもん):旧羽鳥村名主、江戸時代には100石以上の高持であった。羽鳥村の農民の4分の3が同家と小作関係を結んでいたという 。代々八郎右衛門を名乗り、武相倶楽部員だったのは11代目。羽鳥村初代村長。明治5年鵠沼村戸長を兼ねる。同年、小笠原東陽を援助し、邸内に〈読書院〉後に〈耕余塾〉を開かせた。古文書を多く所蔵し、藤沢市文書館に寄託され〈三觜家文書〉と呼ばれる。
  • 金子小左衛門(かねこ こざえもん):旧大庭村名主、大庭村村長、藤沢町会議員、神奈川県会議員(自由党)。2代目藤沢町長金子角之助の養父。
  • 田中平八(たなか へいはち):本名=北村菊次郎。相場師=田中平八(天下の糸平)の長女=登羅の婿で三代目平八を継ぐ。糸平不動産・田中鉱山を興す。東京麹町区内幸町1在住。鵠沼海岸2-17に別荘
  • 齋藤六左衛門(さいとう ろくざえもん):旧鵠沼村名主(大齋藤)、鵠沼村会議員・藤沢町会議員、鵠沼新場(生糸 市場・地引き網)の取締役、大地主。齋藤家は鎌倉時代に鵠沼に来住した三河の斎藤一族の末裔といわれる。神明宮の南方に居を構えたため、南と称した。鵠沼村苅田(本鵠沼5-10)在住
  • 伊東將行(いとう しょうこう 1847-1920):前述
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

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