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第0106話 皇国地誌

皇国地誌

  『皇国地誌』(通称、「郡村誌」)は、明治政府による官撰地誌であり、明治8年(1875)6月5日付太政官達第97号(「皇国地誌編輯に関する太政官達」)、及び同年11月12日付太政官達第196号により、実質的な編輯事業が開始された。
 藤沢市域に関しては、羽鳥の三觜家(耕余塾)の蔵書が遺されており、文書館の手で復刻された。ここに鵠沼村の部分を引用する。
 なお、(  )書きの部分は原文の注釈部で2行分かち書きになっているものおよびルビの振られている部分である。また、[  ]書きの部分は原文の欠けた部分あるいは誤字訂正である。

皇国地誌村誌相模国高座郡鵠沼村

26 皇国地誌村誌相模国高座郡鵠沼村
                  (三觜博家文書)
皇国地誌
  村誌
相模国高座郡鵠沼村
 往古ヨリ本郡ニ属ス旧大庭庄ノ一ナリ現今ハ冠称ヲ廃シ単ニ村名ヲ用ウ片瀬川以西ノ一円ヲ昔ヨリ砥上(和名抄ニ土  耳[甘]郷トアル是ナリ)ケ原卜唱フ嚢ニ該曠野ノ北部ニ沼池アリ鴻鵠常ニ来遊ス文治元年(己巳)長門壇浦ノ役奈須野与 一宗高扇ヲ射テ其声価高シ帰後此地ニー杜ヲ創建シテ其祈リシ所ノ皇太神ヲ勧請シ傍ニ一舎ヲ設ケ家臣浅[間]某ヲ置 テ看護奉給セシメシヨリ人家漸加シ彼沼ヲ開墾シテ遂ニ一村ヲ成シ旧ヲ襲フテ鵠沼卜称ス
彊城
 北ヨリ東マテハ本部藤沢駅ニ接シ
 東ヨリ東南東片瀬川ノ東岸マテハ鎌倉郡河(ママ)名村ニ連シ
 東南東片瀬川ノ西岸ヨリ南ノ海岸マテハ同郡片瀬村ニ界シ
 南ヨリ西南西マテハ東京湾ニ面シ
 西南西ヨリ西北西マテハ引地川ノ中央ヲ分界トシテ本郡辻堂村ト相対シ
 西北西ヨリ西北隅マテハ同中央ヲ界トシテ本郡羽鳥村ト相対シ
 西北隅同川ノ北岸ヨリ北ノ方マテ本郡稲荷村卜境ス
幅員
 東西千三百弐十間
 南北千九百六十間
沿革
 源頼朝公府ヲ鎌倉ニ開カレシ以降世々該府ノ直轄タリ後北条氏ノ臣岩本太郎左衛門ノ采地トナリ天正十八年(庚寅)徳川氏ニ代リ慶長年間旗下大橋長左衛門ノ知行所トナリ慶安二年(己丑)分割シテ高弐百弐十石ハ旗下布施孫兵衛ノ采地トナリ九石ハ本村空乗寺領トナリ三百八十五石ハ代官管知シ安政五年(戊午)細川越中守預リ地トナリ六年(己未)復代官ノ所管トナリ明治元年(戊辰)八月都テ韮山県ニ属シ九月更に7本県所轄トナル
里程
 神奈川県庁ヲ距ル西南六里弐十九町四十三間弐尺
四隣距離
 東南隅鎌倉郡川名村元模ニ至ル弐十八町十六間
 東南々同郡片瀬村元標ニ至ル三十弐開式十五間
 西北西本郡辻堂村元標ニ至ル弐十町三十五間
 西北々本郡羽鳥村元標ニ至ル十八町
 西北々本郡稲荷村元標ニ至ル十四町十間
近傍駅市距離
 東北東本郡東海道藤沢駅元標ニ至ル弐十町五十三間
   但元標ハ中央ノ稍北藤沢駅ヘ通路ノ側字中井ニアリ
地勢
 全地平坦田圃開ケ亘リ片瀬川東境ニ流レ引地川西界ヲ環ル南ハ内海ニ瀕シ人家ハ字引地車田(以上東海道往還ノ側 )上村宮ノ前宿裏[庭]清水苅田原堀川(以上中地)納屋(海辺)中東大東新田(以上中地)石上(片瀬川西)等十四ケ所ニ分 居ス運輸便利薪炭乏シカラス
地味
 概地細砂其色茶褐混淆シ其質下等稲麦薯及ヒ桃茶ニ適シ梁瓜ニ可ナリ水利尤不便旱魃ニ苦ミ中地ノ低キヲ以テ東西 両川ノ洪害ヲ恐レ南部ハ暴風潮溢モ亦憂フ
税地
 田   六十五町七反六畝十六歩
 畑   弐百十八町九反三畝弐歩
 宅地  十六町弐反八畝十七歩
 山林  九十四町六反弐畝十壱歩
 薮   四町四畝五歩
 社地  三畝十四歩
 寺地  七畝六歩
  総計  三百九十町七反五畝十壱歩

貢租

戸数
 本籍
  平民 弐百九十七戸
  社  七戸 但(村杜壱戸 雑社六戸)
  寺  四戸 但(真宗弐戸 真言宗壱戸 浄土宗壱戸)
  学校壱戸
   総計 三百九戸
人数
 本籍
  平民男 九百七十四人
  同 女 九百四十八人
   総計 千九百弐十弐人
     内
 他ヘ寄留
  平民男 弐十八人
  同 女 三十四人
   総計 六十弐人
 懲役
  平民 壱人
    外
 他ヨリ寄留
  平民男 五人
  同 女 七人
   給計 十弐人
 脱籍
  平民男 壱人

 牡馬  九頭

 漁   九頭

 人力車 壱人乗 八輛
   但戸数以下明治九年一月一日調
川 二
 引地川 水源ハ本郡草柳村字土井頭ニ発シ円行村石川村ヲ流レ大庭ノ地ニ匯シテ一湖トナリ大庭域[城]ヲ囲繞シ湯桶  口ヨリ赤羽根村ヘ落室田高田円蔵ヲ経茅ケ崎ヨリ海ニ入シカ廃城トナリシ後各村ニテ彼湖開墾ノ際更ニ山脈ヘ流大   庭ヨリ直チニ本村ヘ疏通シ海ヘ流セシモノ故ニ引地川卜称スサレハ此山[川]ニ架セル引地橋修繕ノ時ハ大庭赤羽根  円行高田香川下大曲中瀬岡田大蔵小谷倉見七ツ木石川等十三村ノ民費ヲ以テ仮橋ヲカケ来リシナリ嚢ニハ橋土[土  橋]ナリシヲ明治九年今ノ板橋トナス北ノ方大庭稲荷両村ノ界ヨリ我字引地ニ来リ北ヨリ西ノ村境ヲ南ヘ曲流シ村ノ南   地ヲ貫キ西南々ヨリ東京[相模]湾ヘ流ル其長三千弐百弐十七間幅八間ヨリ流末弐十間ニ及フ深サ三尺或ハ七尺急  流ニシテ清ク潮汐干満スレトモ船筏通セス
 片瀬川 東ノ方鎌倉郡河名村ヨリ我字奥田ニ来リ東南ノ村界ヲ千五百五十五間南流シ同方字藤ケ谷ヨリ同郡片瀬村   ヘ逝ク其幅十五間ヨリ弐十五間ニ至ル緩流ニシテ清カラス深キハ九尺浅キモ五尺アリ潮汐干満シ舟筏能来往ス

 引地橋 東海道往還ニ属シ北ノ方字引地ニアリ引地川ニ架ス長十三間幅弐間半木製ニシテ営繕官費ヲ仰ク
 引地小橋 東海道往還ニ属シ北ノ方字引地ニアリ[引地川]ニ架ス長三尺幅四間石製ニシテ修繕ハ本村藤沢両地ノ民   費ヲ以テス
 山本橋 鎌倉府ノ頃武蔵国八王子駅ヨリ府ヘノ往来渡リニシテ天正年間マテハ砥上渡リト唱ヒシヲイツノ頃ヨリカ石神渡  リトナリシヲ明治六年片瀬村ノ農山本某ノ発明ニシテ架梁トナスサレハ其旧名ヲ襲フテ砥上橋トコソアルべキニ山本   橋ト標セルハ惜ムべシ橋ノ稍西ニ今仍老松二株アリ渡リナリシサマ著ルシ中央ヨリ東南東字石神(土耳[甘]砥上ナリ   )ニアリ片瀬川ニ架シ鎌倉郡片瀬村ヘ通シ江島往来トス長十七間幅弐  間半木製ニシテ修繕ハ本村片瀬両村ノ民   費トス
 神[上]村橋 西北々字神[上]村ニアリ引地川ニ架シ本郡羽鳥村ヘ通ス長十四間幅四尺木製ニシテ修繕民費ヲ以テス
 清水橋 西北隅字清水ニアリ引地川ニ架シ本郡辻堂村ヘ通ス長十五間幅五尺板梁ニシテ営繕上ニ同シ
 潮(シホ)留橋 西南隅字鰯干場ニアリ引地川ノ下流ニ架シ漁路ニ供ス長弐十五間幅五尺板梁ニシテ修繕上ニ同シ
 鉄炮橋 徳川氏比辺ニテ炮術試験セシヨリ此名アリトゾ中央ノ稍西字高根ニアリ悪水渠ニ架シ本郡辻堂村ヘ通ス長六  間幅三尺木製ニシテ営繕上ニ同シ
 作場橋 在昔鎌倉府ノ頃ハ此海辺東海道ノ往来ナリシトソ是其余波ナリ中央ヨリ西字地蔵袋ニアリ引地川ニ架シ辻堂  村ヘ通ス長十五間幅六尺木製ニシテ修繕上ニ同シ

 片瀬渡 鎌倉府ノ頃ハ稍西ナル海ノ汀ヲ渉リシナラン古ヨリ此川以西ハ砥上力原ノ海浜ニシテ東海道ノ往還タリ極楽寺  口ノ切通シヨリ七里ケ浜腰越ノ駅片瀬ノ里ヲ経テ此川ヲ渉リ円蔵村ヲ過テ馬入川ニ抵ルサレハ宗尊親王都ニ帰リ玉   フ時 カヘリキテマタミンコトモカタセガハニゴリシミヅノスマヌヨナレハ 藤沢為相卿ウチワタスイマヤシホヒノカタセガ  ハオモヒシヨリモアサキミヅカナ 加茂長明 ウラチカキトガミノハラニコマトメテカタセノカハノシホヒヲソマツ南ノ方字   江島前此所ヲ小田原瀬卜唱フ嚢ニ旧碑アリシガ今ハナシ小田原辺ヨリ鎌倉府ヘ通フ人々ノ此碑辺ニたたずミテ干汐  ヲ見合テ川ヲ渉リシヨリノ名ナリトゾニアリ片瀬川ノ下流ヲ片瀬村ヘ渡ス川幅弐十立間アリ私渡トス我元標ヨリ渡口ニ  至ル三十三町弐十間
道路 三
 東海道往還 北ノ方本郡羽鳥村ヨリ引地橋ニ来リ東北々字車田ヨリ藤沢駅ヘ及フ其長三百五十間幅四間
 江島往来 東ノ方本郡藤沢ヨリ本村字石神ニ来リ南ヘ四百弐十五間幅弐間東南東山本橋ヨリ片瀬村ヘ達ス
 江島脇往来 東北々字車田ニテ東海道ヨリ?ニ東南ヘ千三百三十五間幅弐間東南東字石神ナル山本橋ニ至ル
電線
 北ノ方本郡羽鳥村ヨリ続キ東海道ノ南側ニ沿ヒ東北々字車田ヨリ藤沢駅ヘ連ル其長三百五十間
掲示場
 元標卜?立ス村ノ入口ヲ路ル四百弐十五間
社 七
 皇太[大]神宮 式外村社々地東西四十五間壱分南北七十間面積三千百五十四坪本ノ北字宮ノ越ニアリ大日?尊ヲ奉   祀ス文治元年(己巳)三月長門国壇ノ浦ノ役平民美姫(玉虫)ヲ小舟ニ載テ扇ヲ竿頭ニ挿ミ之ヲ其舳ニ樹麾キテ射ヨト請  フ源義経那須野宗高ニ命ス会マ風吹テ扇揺ク之ニ於宗高黙シテ太神ヲ祈ル須叟ニシテ風穏ニ的定マルー発扇轂ヲ  断テ名ヲ海陸ニ震ハシ東帰ノ後奉祀ノ為本社ヲ創建シテ勧請シ其社傍ニ一家ヲ設立シテ家臣浅間某ヲオキ之ヲ看護  奉給セシム明治元年(戊辰)一品中務卿熾仁親王神明宮ノ三字ヲ自書シテ贈ハル例祭六月十七日社地中老古槻各   五六株老数十株ハ皆五六百年前ノ物タリ其他四周ニ雑樹繁生シ幽蔭蒼蔚幾ント千載ノ旧地タル事一見知ヘキノミ彼  宗高扇ヲ射シ所ノ弓矢ハ浅間某ノ後孫本村ノ農浅間佐五平今仍秘蔵ヨリ其古色愛スべシ
 伊勢宮 雑社 中央ノ北字宮ノ越ニ在
 社護神 雑社 西北々字上村ニアリ
 稲荷社 雑社 北ノ方字引地ニアリ
 太神宮 雑社 西南隅字新田ニアリ
 熊野大神 雑社 中央字中東ニアリ
 稲荷社 雑社 中央ノ北字横須賀ニ在東西十二間壱分南北五間面積六十壱坪本村ノ農関根伝左衛門
  祖先関根孫六ハ管領上杉ノ臣ナリ天文二十年七月北条氏康ニ平井城ヲ陥サレ長尾景虎ヲ依頼シテ上杉憲政越後ヘ  赴クノ際孫六ハ本村ニ留任シ帰農ス所有ノ地ナリ
  勧請歳月詳ナラス此地ニ涌泉アリ曽テ之ヲ飲ム里人其芳名ヲ慕フテ本社ヲ創建セシ卜伝フ今モ小渠社地ヲ囲??シテ  涌泉僅ニ流ル其旧泉ナルヤ否確ナラス老松三株社地中ニアリシカ文久年間枯タリト今ハ持其朽痕数囲ナルヲ見ノミ
寺 四
 万福寺 境内東西二十間南北三十三間三分面積六百六十五坪本村ノ西北北字宮ノ前ニアリ西京真宗東本願寺末派  ニ属ス寛元(丁巳)三年僧源海
   縁起曰源海ハ武州児玉党権守清光ナリ曽テ仏ニ帰依シテ江島ニ於テ薙髪シ后親鸞ノ徒弟トナリ豊島郡荒木村ニ一   宇ヲ開立シ万福寺卜号ス後故アリテ三河国加茂郡高橋庄力石村ヘ移リ楽命山荒木如意寺卜号ス後上京シテ山科   興正寺ニ住シ東下ノ際聖徳太子ノ木像□ヲ親鸞ヨリ受テ江島ニ帰ル其頃本村ハ砥上ノ曠原ニシテ各地ニ樹アリ又   沼地アリ人家僅ニ在テ村名モ定マラサルナリ源海鵠ノ遊ヘル沼地ノ一方ヲ埋メテ一宇ヲ創立シ鵠沼山万福寺ト号ス   云々
  之ヲ開基創建ス
 空乗寺 境内東西十間南北二十七間四分面積弐百七十四坪本村ノ西北隅字宮ノ前ニアリ伊勢国一身田村真宗専修  寺ノ末派ニ属ス永禄八年(乙丑)九月僧了受ノ開基ニシテ大橋式部卿竜慶(文徳天皇ノ後胤)ノ創建ナリ本村ノ地頭タ   ル旗下大橋長左衛門尉源重政ハ徳川(三世)家光公華道ノ師ナリ其父竜慶ノ帰依シテ創立セシ所ナルヲ以テ采地ノ内  高九石(字石神)ヲ寄附シテ寺領トス是慶安二年(己丑)八月廿四日(三世)僧慶心ノ時ナリ爾後世襲シテ明治元(戊辰   )八月上知ス大橋重政夫妻ノ墓境内ニアリ
 普門寺 境内東西弐十五間南北十九間五分面積四百八十七坪本村ノ中央ヨリ稍北ノ方字南ニアリ鎌倉郡大鋸町古義  真言宗瑞光寺ノ末派ニ属ス享禄元年(戊子)僧良元之ヲ開基創建ス
 法照寺 境内東西二十間南北十間八分面積二百十六坪本村中央ノ稍東北々字中道ニアリ西京浄土宗知恩院ノ末派ト  ス寛文元年(辛丑)僧竜保一庵ヲ開基シ宝永元年(甲申)五月僧欣誉之ヲ中興改建シテ法照寺卜号ス
廃堂
 毘沙門堂 中央字中東ニアリ境内東西八間南北七間六分面積六十壱坪本村ノ農高松祐重所有之地ナリ西京聖護院  ノ末派トス建久六年(乙卯)八月修験祐範之ヲ開基創建ス本尊毘沙門天ノ銅像(一寸八分)ハ祐範ノ祖先某近江ノ国ニ  在リ延暦年間嘗テ貧ヲ僧伝教ニ訴フ伝教諾シテ此像ヲ与ヘ呈示シテ曰是得福除禍ノ霊像ナリ汝謹テ之ヲ祈ラハ幸福  アルべシト祐範ノ世ニ至リ更ニ感スル所アルヲ以テ新タニ一像(二尺八寸八分)ヲ運慶ニ彫刻サセ彼小像ヲ其腹裏ニ   納メ一宇ヲ創立シテ高福山毘沙[門]堂卜号ス世々之ヲ看護奉祀シ来リシカ修験(三十二世)高松祐重世ニ至リ維新ノ  革命ヲ遵命シ明治三年(庚午)十一月堂宇ハ廃シ境内ノ地ハ所有主高松祐重ヘ復シ本尊モ同人ヘ帰ス

 首塚 中央ヨリ西北隅字宮前ニアリ暴ニハ塚上ニ庚申塔一基松一株アリ里人之ヲ首塚或ハ金堀塚又ハ庚申塚ト唱ヘ  其何タル不分明ナレハ曽テ之ヲ発(アハ)クニ首骨数十百脚骨四アリ集メテ之ヲ一瓶ニ納メテ改?シ其上ニ碑ヲ樹テ首  塚卜標ス何人等ノ枯骨ナルヤ知ベカラス
勝地
 高砂ノ眺望 中央ヨリ東西々ナル砂丘ナリ此辺ヨリ海岸ニカケテ砂漠ノ地ハ享保以来五ケ年毎夏百日ヲ期シ徳川氏炮  術ノ試験ナリシヨリ鉄炮御場所卜里称ス即チ砥上ガ原ナリ
  西行シハマツノクヅノシケミニツマコメテトガミカハラニヲジカナクナリ 藤馬相卿タチカヘルナゴリハハルニムスピケン  トガミガハラノクヅノフユガレ
南ニ袂力浦
  片瀬以来江島辺ヲ袂力浦トイフ堯恵チラサシトエノシマビトヤカザスランカメノイハナルヤマザクラバナ 同ナビキコシ  タモトガウラノカヒシアラハチドリノアトヲタヱストハナシ
 ノ漁舟片瀬川ノ流レ三浦郡ノ三崎ハ遠ク海面ニ欹ダチ江島ハ亀形ヲナシ テ片瀬川ノアナタヨリ突出シテ手ニモトラヘラ ルべク豆州ノ噴火山ハ波間ニ出没シ西南ノ天城函嶺足柄金時ノ諸山ハ屏列シテ一大湾ヲナシテ似 タリ西ノ陸ツゝキニ八松(ヤツマツ)力原八的ノ移リノニシテ鎌倉府ノ頃 彼所ニ八的ヲ樹テ此辺ヨリ射テ弓術ノ試験アリシ旧唱ナナン(マ マ)
 高麗山余綾ノ浜モミエ富岳ハ西天ノ雲間ニ白扇ヲ倒懸シ西北ノ雨降山荻 野山モ雲際ニ聳ヒ北ヨリハ藤沢ナル堤陂形山ノ松林蒼々トシテ東ハ藤沢 山ノ森ニ連続シ山本橋ハ斜ニミエ東南片瀬ノ山陵ハ南ニ延亘シテ片瀬川 ニ臨ミテ尽ク此処ヲ竜ノ口ノ七面山卜云其頂ノ松ノサマモ亦奇ナリ実ニ 此高砂ノ眺ハ勝景快観卜賞シテ可ナリ
桃畑 東南部ノ畑地一円ニ粗生シテ藤沢駅ノ桃畑ト連接ス例歳三月ノ末四 月ノ初ヲ盛花ノ時トス其美観賞シテ余リアリ
学校
 公立学校
  鵠沼学校卜称ス村ノ北字南ニアリ明治八年新築ス
  生徒男 八十九人
  同 女 四十四人
  教員男 四人
物産
 米
 但東京横浜港藤沢駅等ヘ輸贈ス
  明治九年一月一日調
民業
 農ヲ業トスルモノ弐百十二戸
 漁ヲ営ムモノ七十戸

  明治十二年二月一日編成
            総閲
             神奈川県令 野村  靖
            編纂主任
             同 御用掛 星野 東作
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[引用文献]
  • 藤沢市教育委員会:「藤沢市史料集 11村明細帳 皇国地誌村誌」
 
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