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第0307話 湘南遊歩道路起工

大東京の風景地

 1931(昭和6)年8月26日、《湘南遊歩道路》の起工式が催行された。
 第0290話で紹介した官選第15代神奈川県知事山県治郎の発想による湘南海岸と箱根を結ぶ一帯の国際観光地化企画の最初の具体策は、湘南遊歩道路の建設であった。
 山県知事は、「湘南地方計画と風致開発策」という論文で、湘南を「大東京の風景地」と位置づけ、「各種交通機関は、湘南に向つて殺到して居る状況だ。従って此処に奮然として起って来る処の、乱雑なる湘南地方小都市を大都市の外郊として其の体を如何に統制すべき哉が重大なる問題になって来る。そこで此の統制を支配する重要なる処置は、一に懸って自由空地の確立、即ち緑地網の設定と、地域制の限定に外ならぬ。之れ即ち湘南の湘南たる所以であらう」と論じている。
 この、山県知事の国際観光地化構想より先に、山県知事就任直前の段階で、鵠沼を中心とする湘南地域では、いくつかの湘南遊歩道を生み出す時代背景があった。それを以下のようにまとめてみた。
  • 大正関東地震による大幅な地盤の隆起(鵠沼海岸で90cmと想定される)による海退が起き、砂浜の面積が拡がった。これにより、飛砂の被害が問題化する。→1928(昭和3)年、神奈川県による昭和天皇御大典記念事業の一環として湘南海岸約180haに魚附砂防林の植栽が始まる。
  • 関東大震災の被害がより大きかった京浜地区より転住する人口が増え、湘南海岸はかつての別荘地から定住の住宅地に変貌する。
  • 1927(昭和2)年、円タクが登場し、旅客の輸送手段としてこれまでの人力車からタクシーの時代に転換する。このことにより、自動車交通に適する幅の広い舗装道路の建設が望まれた。
  • 1929(昭和4)年4月1日、小田急江ノ島線が開通し、首都からのアクセスが向上、住宅地化と日帰り観光地化に拍車がかかる。

概要

 この道路について調べてみて、下記[参考サイト]のWikipediaの《神奈川県道片瀬大磯線》を私(HN=Kurobe56)が起稿しておいたので、詳細はそちらを参照されたい。写真や断面図も貼り付けてある。そのうち概要の部分を列記しよう。
  • 官選第15代神奈川県知事・山県治郎が推進した国際観光地化計画の中心をなす企画であった。
  • 先に工事が進んでいた魚附砂防林を縦貫して、往復2車線のコンクリート舗装による幅員12mの車道を中心に、幅員2.25mの山手歩道、幅員3.6mの海岸歩道(逍遙道ともいう)を設け、片瀬西浜から鵠沼海岸にかけては海側に幅員5.5m - 7.5mの乗馬道が設けられた。
  • 海岸の展望を期待して、ことに現在の片瀬海岸 - 鵠沼海岸の区間は海岸砂丘列第一列の頂上部に設けられたが、現在は砂防林の生長に伴い海岸部を通りながら橋梁上を除き海の見えない道路になった。
  • ほぼ現在の国道134号西半部の経路であるが、藤沢町西部(辻堂地区)から茅ヶ崎町東端には横須賀海軍砲術学校辻堂演習場が設置されていたため、これを迂回し、浜見山交番前交差点から浜見山交差点までは現在の神奈川県道308号辻堂停車場辻堂線(当時の名称は「昭和通り」)、浜見山交差点から浜須賀交差点までは現在の神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線を経由していた。
  • 将来的には鎌倉と箱根を結ぶ国際観光ルートの一部となる予定だった。
  • 折からの世界恐慌勃発に対応する失業救済対策の一端としての性格も持つことになった。
 建設の経緯等については、必要に応じて別項を立てる。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考サイト]
 
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