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プロフィール安藤 寛(あんどう ひろし 1892-1993)は歌人 佐賀県多久市生まれ。【学歴】長崎高等商業学校卒 長崎高商卒業後、サラリーマン生活の中で、1919(大正8)年主宰者として歌道を改革した佐々木信綱の「竹柏会」に入会し、また、荒井洸に師事し「曙会」の一員にもなった。信綱が1899(明治32)年に始めた、全国-長い歴史をもつ月間短歌誌「心の花」の選者でもあった。 戦時中、従業員800人を抱える軍需工場を経営していたが、労働組合との紛争が長引くなど工場経営に嫌気がさして解散し、その後炭鉱の会社に勤めながら歌道一筋に専念してきた。 鵠沼とのゆかり鵠沼桜が岡1-2-27には1928(昭和3)年東京より転居し、会社退職後は歌道に専念し、1960(昭和35)年第一歌集「山郷」を発行、1972(昭和47)年第二歌集「千林」を発行した。鵠沼地区内の後輩の指導にも熱心で、1976(昭和51)年には鵠沼公民館で短歌教室の講師を1年間務め、終了した後には、有志が残って安藤氏中心の「二水会」を発足させた。このほか90歳の高齢にもかかわらず、同公民館で「心の花湘南短歌会」と藤沢公民館で身体障害者、女性各グループを指導するなど四つの講座を担当して公民館活動に多大な貢献をしてきた。1993(平成5)年1月百歳の天寿を全うし、歌道一筋80年の輝かしき生涯を終えた。 次に安藤氏自身が『鵠沼』第55号に寄せられた文を引用しよう。 私の鵠沼懐かしい題を出されて、柄にもなくこの一文を御引き受けしました。私が鵠沼に住んでから、既に52年になる。藤沢町時代である。昔から文に歌に「松の里鵠沼」で知られた処である。蘆花の小説「思い出の記」の主人公菊地慎太郎は熊本から東上の途、藤沢に下車し、愛人保養の家を探して、赤埃の畑道を人力車で、片瀬山の山陰の道を辿って、海岸の東屋迄行くくだりがある。戦前まではこのような風致も、道の所々に残っていたようである。慎太郎は愛人の住居を探し歩いて、折しも鵠沼の夏祭の大鼓の音が、空しく響き渡っている農村風景が写されている。私が昭和3年鵠沼に移って来た頃はまさにこのような風景であった。懐かしい描写である。私が移り住む前年の夏、片瀬西浜橋の袂に家を借りて避暑した。橋を渡って海岸迄の間は背丈程の小松が一面に生えていて、塩湯営業のような建物と、他に小さな家が二軒ぱかりあるのみであった。この縁故で身体の弱かった家内は、東京に帰ることなく、翌年は現在の家を建てて、定住となったわけである。今の地、桜が岡一丁目、その頃は橘通りといって、藤沢駅から家迄の一本筋の道は、僅かに江ノ電寄りの東側に、四軒しかなかった。あとは左右全部桃畑であって、下の方は黄色い南瓜の花が咲いていた。今の石上あたりから柳小路へかけて、一段の低地で、萱が一面に生えていた沼地であった。今も蓮池という名で、小さな池が残っている。この辺りは文学の歴史としても、”砥上ケ原を過ぎて”という西行の一首が残っている。(砥上ケ原は大庭在ともいい、この石上ともいわれている。)「しま松のかずの茂みに妻こめてとなみが原にお鹿なくなり。」である。 もともと鵠沼は東京横浜に近接する、家族療養の地であった。春になると松の花粉が縁側に真っ白く降りこぼれる風景であった。在住の大方は皆、健康上の故障の人が多かったようである。昭和の初め頃、藤沢東京間は汽車で一時間半の距離であった。二等車定期の通勤客吾々は、汽車会というものがあって、車内の一種のサロンであった。青年弁護士片山哲先生の若き日は、吾々の中の明るいホープであった。東京横浜の実業家に加えて、当時横須賀鎮守府の海軍さんが多かった。鎌倉に溢れた海軍さんは皆んな藤沢に住居を構えられた。藤沢発展の先鞭をつけたのは海軍軍人さんであったと思う。それにいま一つ特筆せねばならぬことがある。それは県立湘南中学の開校である。初代校長の赤木愛太郎先生は氏独特の抱負を以って、名門湘南中学の経営に身命を投げ打った人であった。当時巳に地方より中央に転任する人達は、こぞって子弟の将来のため、湘南中学を目指して、住宅をこの藤沢鵠沼(鎌倉も同じ)に求めたのである。いいかえれば、日本の首都を動かす力即ち原動力になる知脳の一部人士が相当この藤沢鵠沼に集まり、それらのことが吸引力となって、今日の藤沢を盛大にした一因ともいえるのではあるまいか。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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