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大正15年頃の鵠沼海岸商店街鵠沼を語る会の会誌『鵠沼』第81号の特集 鵠沼海岸商店街100年の歴史における研究は、1926(大正15)年を手始めに5年毎の商店街の姿を地図にまとめている。今回はそれをもとに改変して図化してみた。下に示すのは、震災の復興がある程度進み、小田急が開通する前段階の鵠沼海岸商店街の姿である。 関東大震災は、鵠沼海岸を別荘地から定住の高級住宅地へと変貌させるエポックをもたらした。商店街の形成はそれを支える重要な意味を持っていたといえよう。 この時代、すなわち大震災復興期における鵠沼海岸商店街の様子が、他の商店街とかなり異なると思われるものに、住宅建設とメンテナンスに関わる職業の種類が多く、一通り揃っていることが挙げられる。屋根屋(銅鹿・銅元・銅関・関根スレート)、畳屋(関根畳店)、ガラス屋(榎本ガラス店)、電気工事店(江電舎)、造園業(植藤・植定・植広)、建具店(高木)、建築業(大勝・大村・林大工・神原)、井戸屋(関根ポンプ)などである。 この傾向は、現在の鵠沼海岸商店街にもある程度受け継がれている。 一方、現在の鵠沼海岸商店街からは思いもよらない姿もある。それは、《鵠沼郷土資料展示室》の『鵠沼と岸田劉生』展準備のために『劉生日記』を読み返してみて気付いたことである。大正時代の鵠沼海岸には、薬局と髪結い(婦人の)と歯科医がなかったらしい。薬を買うために藤沢の町まで書生を走らせたり、溲瓶を腰越の薬局で買ったりしているし、髪結いや歯医者は藤沢にもあったが気にくわなかったのか、わざわざ汽車で東京まで出掛けたりしている。麗子が鎌倉の学校に通学するようになると、鎌倉の歯医者を利用したようだ。 劉生鵠沼時代の最後の頃、ようやく《斉藤百貨店》内に《ライオン堂》薬局が開店し、ご主人は劉生宅に商品を届けた記憶をもっておられたが、『日記』には記されていない。 これら3業種は、現在は共倒れを心配したくなるほど鵠沼海岸に溢れている。 | ||||||
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