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第0150話 長谷川欽一

東屋と長谷川家

 第0140話に記したように、ゑいの両親は元金沢藩士といわれる長谷川重守・きよ夫妻で、明治時代には東京・牛込に住んでいた。夫妻には男1人、女6人、計7人の子があったが、長女は夭折した。弟妹の面倒を見る実質上長女の役割を果たした二女=たか(1866-1938)、三女が東屋初代女将の長谷川ゑいである。ゑいの次に生まれたのが長谷川家唯一の男性である嫡男=繁蔵である。繁蔵とその妻=タケとの間に、一人息子の欽一が生まれたが、幼少時に父=繁蔵が他界し、母もその前後に長谷川家を去っている。欽一は直ちに家督を相続し、後見人には伊東將行が就いたが、働き者と伝えられている祖母=きよも健在で、長谷川家が結束して欽一を育てることになった。長谷川家の四女=蝶は福田良平と結婚した。二人の間には子が生まれなかったので、姪の光代を養子にする。
 蝶の下には、そのと寿々という二人の妹があった。寿々は後藤 栄という後に長谷川欽一の後見人となる人物と結婚する。
 このようにして幼少の長谷川欽一が長谷川家の家督相続者であり、従って東屋の経営者であるという立場をとったため、ゑいの死に際して長谷川家と伊東將行との間に、相当な確執が生じた。
 その事情については高三啓輔:『鵠沼・東屋旅館物語』に詳しい。
 後に長谷川欽一氏自身が『鵠沼』第55号(1990)に「私の鵠沼」と題した文を寄せられているので、ここに再掲する。

長谷川欽一:「私の鵠沼」

 昔の鵠沼族と同じく私も御多聞に漏れず移住族の一人です。然し明治34年、数え年2歳の時、おやじが療養のため、東京から姉である「東屋」を経営していた長谷川栄を頼つて鵠沼に移り住んで以来、もうそろそろ80年になろうとしています。
 東屋の名が出てきたので、先ず東屋の事から先に書くことにします。というのも、時々新聞その他で、鵠沼と云えぱすぐ東屋のことが出て来ますが、間違って伝えられている点が時々見受けられます。「それは違う」と□角泡を飛ぱして抗議する程の事ではないと黙ってきましたが、私が書くとなると正確な事を書いて、次代へ残す義務がある様に思います。東屋の創業は、何時であったかは私の生まれる前の事なのではっきりしませんが、伊東将行氏と長谷川栄が力を合わせて経営し、発展させて行った事だけは事実です。
 位置は、今の料亭東家より一本東側の八百屋(矢折)の道を入った突き当たりの東南一帯(永井邸より海岸寄り)の五千余坪がそれでありました。
 伊東将行氏は、もっぱら鵠沼開発の仕事に専念し、栄は東屋を経営し、伊東氏の仕事に後顧の憂いの無いように盡くしたのです。
 東屋の名義人は長谷川栄でしたが、栄が大正5年1月に急逝した際、伊東氏は栄の死後に伊東姓に入籍の手続きを取つてしまいました。当然遺産相続の問題が伊東氏と長谷川一家との間に起こりました。栄には子供が無く栄名義の東屋を継承する正当な嫡出氏が居ないので、両者の間で相続の話し合いが続きます。
 話は少し前に遡りますが、私の父は鵠沼に移住した翌35年6月に病没しましたが、父は長谷川家のたった一人の男児であり、あと9人は女ばかりであったので、私は数え年3歳で長谷川家を継ぎ、なにがしかの財産を持つて栄の家で養われる事になり、生母は里に帰り再婚しました。
 その当時、鵠沼に来て栄の商売を手伝つていた長谷川の一族は、私に東屋を継がせるべく伊東氏と話し合いが続き、やっと円満に私が東屋の名義を相続する事になりました。その後の東屋は大正12年の大震災迄は多少の「いきさつ」は有りましたが、順調に経過していきました。震災で東屋の建物は全壊し、フランスに留学していた私も呼び戻され復興したのですが、その後経営に不向きの私は、昭和14年東屋を廃業致しました。その際には、町内会の皆さんから鵠沼から東屋が消えるのは寂しいと言われたものです。
 戦後に入り、当時の鵠沼ホテルさんが、この地に「東家」の名を残すのだと、その名を使われるようになったと聞いております。 先頃の朝日新聞に、料亭東家の裏門であったかの如く、写真と記事が掲載されていましたが、これも誤りの一例で、これは私が復興した東屋の残された遺物の一つです。
 「私の鵠沼」でなく「私と東屋」になってしまいましたが、夏の海岸での「夏の会」の催し、烏帽子岩や江の島への遠泳、舟遊ぴの思い出等数限りが有りません。
 大正13年には、その当時としては数少ない硬球のテニスコートを二面、敷地の一角に造り、鎌倉(海浜)ホテルのコートと両方使っての「鎌倉トーナメント」を開催、数多くのテニスの名士が出場され、私もその一員としてプレーした思い出、又昭和5・6年頃始めたゴルフに、人影まぱらな砂浜で片瀬海岸までボールを打ちながらの練習で腕を磨いた事等思い出は盡きません。しかし、紙面にも限りのある事とて心を残しつつ筆を擱きます。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 長谷川欽一:「私の鵠沼」『鵠沼』第55号(1990)
  • 『東屋記念碑』設置記念特集号:『鵠沼』第82号(2001)
  • 高三啓輔:『鵠沼・東屋旅館物語』
 
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